オンライン授業

 

2020年9月11日追記あり
2020年8月23日
(A)突然ですが、SATをご存知でしょうか。アメリカの大学入学の選抜試験の一部です。対象は、英語を母国語としている進学希望者、と聞いています。
私が高校の教師をしていたころ、科目は、英語と数学、でした。その後、選択制で物理やコンピュータなどの科目も設けられているようです。
当時、数学の問題を見てみると、日本では中学生レベル程度で、日本人にとっては、問題文の英語さえ理解できれば、楽勝、という印象を持ちました。しかし、英語に関しては難解で、海外帰国生徒で英語が堪能で、むしろ日本語に苦しんでいる生徒が、必死になって受験準備をしているのを見かけました。聞けば微妙なニュアンスの違いを問われる、ということでした。そんな中、ひとりの生徒がSATで高得点を得たというニュースが入りました。そして、瞬く間にアメリカ中の名のある大学から、奨学生としての招待状が届いたそうです。

(B)母国語である英語の理解力と表現力(相当高度のものを要求していると思いますが)があり、数学で言うと、比例計算と連立方程式くらいの計算力があり、論理的な思考力があれば、大学での教育を受ける資格を認め、志望がどのような学部であっても入学を許可するという姿勢に驚いたものです。数十年前の話ですが、現在も基本はかわっていないようです。私の理解では、いわゆる「読み書きそろばん」が出来て、言葉の理解力と表現力が優れていれば、どの分野を専攻してもそれなりの成果をあげられる、という考え方に基づいているのだと思います。

(C)オンライン授業についての考えを述べます。
「公文式」が成果をあげているようですが、(B)で述べた「読み書きそろばん」の領域、また、初等英語の領域は、オンライン授業が有効、いやコンピュータを利用した授業が有効な場合があると思います。
日本人の特性かもしれませんが、誤まりを失敗と受け取り、恥ずかしいことと感じる子供にとっては、同じことを何度でも繰り返して学習でき、ひとりで納得できるまで確認することができる学習環境は、大きな利点です。

試行錯誤を繰り返し、失敗することを怖れず、成功するまで努力を尽くせる。ノーベル賞に限らず、大きな成果を達成した人の特性のひとつと思います。そのような性格の子供は、親としては心配でしょうが、大きな可能性を秘めていると思います。

一方、大学教育においては「課題を分析し、情報を収集して、主張をまとめる」という作業は、インターネットの普及した現代では、オンラインでも可能かもしれません。むしろ、大学教育の存在意義が問われることになります。コロナの時代に、オンラインで講義を代替えしている大学が多いようですが、学生に甘えて、大切なものを見失っているように感じます。

問題は、その中間段階の、10歳から16歳くらいの、多感な時期の青年たちにどのようにして知的好奇心を喚起させ、さまざまな体験を通して、将来の人生につながるものを習得させるか、ということです。オンライン授業では難しいと思いますし、現在のITは逆の効果を果たしているように感じています。
人間的な成長を促すには、人間同士の直接的な接触、特に同世代間の友人との接触、また親以外の大人との接触の経験が大切であると考えます。

(D)6-3制を見直そうという方向性が文部省にあるようですが、ITを有効に活用するためには、教育の目標をしっかりと定め、ITに任せるところは任せて、人間を育てるにはどのようにすればよいかを、明確にすることが重要と思います。そして、それは、今の政治家・官僚のもっとも苦手とすることであると感じています。(「人間を育てる」というと、すぐ「国を愛する心」に直結する政治家は、論外です。)

(E)数学が専門ですので、ひとつの例をあげておきます

(F)円周率を学べば、円弧の長さや円の面積を計算で求めることができるようになります。そこまではITでも十分でしょう。しかし、円周率の定義をきちんと述べることのできる人はどれくらいいるでしょうか。定義は(円周の長さ)/(直径の長さ)です。では円周の長さはどのようにして測るのでしょうか。そこを突き詰めると、「無限」の概念に行き当たります。そのことを理解するためには18歳くらいでの抽象的な理解力が必要になります。じつは、これを乗り越えると、数学ほど面白いものはない、という気持ちになるのですが。その境界がSATかと思います。

ここまでお話しすると、なぜ日本で「数学嫌い」が生まれるのか、ということへの答もわかってきます。そのような「疑問」を懐くひまもないくらい、日本の数学教育は、「急かされて」います。高校の数学の問題が解けても、なぜ、そのような問題が生じたかを考える暇がないのです。「サインコサインなんになる~」ということになるのです。

(G)最後にひとこと
オンラインの教材ですが、国で予算を組んで、業者に体系的なものを発注するべきです。現在は、現場の教師が授業の片手間に、実験的に作成しているか、私立学校で宣伝もかねて予算を組んで作成しているのが現状です。本気で体系的なものに取り組まない限り、利用価値のあるものはできません。しかし、くれぐれも、政治色が出ないことを祈ります。

2020年9月11日  追記

(Ⅰ)提案 その1
現在の国語教育は、現代文や新聞記事を教材としたものが増えていると聞きますが、詳細を知りません。その上で、以下の提案をします。

私が小学生のころ、たとえば
「いささか」という単語を用いて短文を作れ、
という問題が、毎回のテストごとに出題されていたことを記憶しています。子供心に頭を悩ましたものです。さまざまな使い方を訓練できたと思います。
*「正しいものを選べ」という形式なら、ゲーム感覚で覚えられるでしょう。
*「短文を作れ」という形式だと、人間が採点することになりますが、AⅠを活用すればできそうです。

それに対して、「文章を要約せよ」とか「筆者の主張したいことは何か」などは教師の人間性が発揮されるので、(C)で述べた、ITの先の学習になると思います。

(Ⅱ)提案 その2
最近、自動翻訳が発達して、日常会話に関しては、実用に十分な程度に進化しているようにも思えます。そこまではITを活用しての学習が可能と思います。たいていの人たちについては、それでよいとして、そこから先はどうでしょう。
例えば、英語の文章を日本語に翻訳する時、母音の数が 1.5倍 になると聞いたことがあります。当時、演劇に関心を持っていたので、「なるほどな」と納得した覚えがあります。というのは、シェイクスピアの戯曲を舞台にのせようとすると、セリフを忠実にたどると、時間の流れが緩慢となります。逆に物語のテンポをリズミカルにすると、早口言葉になる。日本の演劇界の大きな問題点だと感じます。
木下順二は物語の内容の「正確性」を守りながら、「日本語表現」を大切にした翻訳を試みました。彼が翻訳したシェイクスピアの全集は、日本語として、すっきりと理解できる、翻訳であったように記憶しています。
このような考え方が、日本語教育・外国語理解の参考になると思います。
ついでながら、木下順二は源氏物語を現代の舞台に「翻案」した作品を残しています。ヨーロッパなどではよく行われる手法だと聞きますが、日本ではあまり行われていないようです。残念に思います。

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