信仰の自由①

「自らに誠実であること」

自身が原告として裁判に関わるようになることは、想定していなかった。まして、「信仰の自由」が争点になったとき、自身に確信というものが無く「聞く側」にまわり、責任を持った発言ができないでいた。

裁判が始まって二十数年、ヒントとなる言葉に出会い、厚い雲が晴れて陽が差し込んできたような、そんな気持ちになった。とりあえず、まとめてみようと思った。

私は、「お天道様が見ている」という言葉が好きである。何か行動を起こしたいとき、それが正しいことかどうかは自身に振り返って考えるしかない。少しでも「やましい」思いがあれば「するべきではない」。その判断は自己の奥底に宿っていて、気づかないこともある。

「自らに誠実であること」が「最後の審判において、神の裁きを受ける」ことへの勇気のように思える。このことは、どんな宗教においてもその人にとっては「絶対神」を信じること、信仰の道に入ることになる。

「誠実」であることが、その時代に受け入れられるとは限らない。権力者からの迫害を受ける可能性は歴史が証明している。立ち向かう力のない者は権力者に従うしかない。そういう理不尽な世の中で、最後の支えとなっているのが「信仰」だったのではないか。自らに誠実であろうとしたときに生じる社会との軋轢。そこに勇気を与えるのが「神」の役割だったのではないか。

「神」は姿を現さない。「神の声」も届かない。「神」は人々それぞれの心の奥底にあるものだから、それを信じて行動するしかなく、それに反することは自己否定であり人格の崩壊ではないか。だからこそ、信仰は守り通さ無ければならない。憲法で保障しなければならないものである。

裁判において、信仰の結果を否定するなら、「誠実さ」を論理的に否定することが必要なのではないか。難しいことではあるが。

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