信仰の自由②

映画「ヤングフランケンシュタイン」から

むかし、学生のころ、映画「ヤングフランケンシュタイン」を見た。そのラストシーンが心に残った。人生の折々にその場面を反芻しながら生きてきた。

難破した船から、救命ボートに乗り移ったとき、船長がフランケンシュタインに言った、「お前の名を聞いてなかったな」と。その答えは、「NOT  GIVEN」。英語の耳を持たない私にも、明瞭に響いた「ひとこと」であった。

神に祝福されて生まれた「人間」ではない、というフランケンシュタインの底知れぬ悲しみがこの一言に凝縮されていると思う。字幕には「名はない」と。

「信仰の自由」という「自由権」が生まれたキリスト教の世界では、人間は生まれて、命名され、洗礼を受けて初めて「人間」として認められる。信仰の深さや宗派の違いはその後の事であり、信仰の自由はそれ以前の問題として捉えられているのではないか。生まれて、神から祝福を受けたその瞬間「人間」となるなら、まさに「基本的人権」なのであろう。だからこそ、議論の余地のない権利として憲法に記載されているのである。その後、キリスト教以外の宗教についても、対等な立場から「信仰の自由」が絶対的な自由権として認められるに至ったと考えます。

一方、日本では、憲法や基本的人権などの概念は、欧米の文化とともに輸入された。信仰の自由以外の概念は、論理的な思考で理解し、導入することもできるが、「信仰の自由」は欧米の文化に根付いたものであり、日本文化の中に相当する概念を見いだせないのではなかろうか。八百万の神と肩を並べてしまったのではないのだろうか。東京「君が代」裁判においても、最高裁判決でさえ、「真摯な」信仰姿勢が自由権を認める際の「評価基準」と考える気配がある。

思い出すのは、学生時代に読んだ「良心的兵役拒否の思想」(阿部知二・岩波新書)である。日露戦争のさなかにキリスト教の信仰を理由に、銃を持つことを忌避し、後方支援の希望が認められた事例である。想像するに、この問題が国民に問題視されることを嫌った軍部の「ことなかれ主義」の結果ではないかと思う。

「バーネット判決」を読んで

アメリカでは、1940年にエホバの証人としての信仰を理由に、アメリカ国旗への敬礼を拒否した事例に最高裁は否定的な判決を出した。しかし、その結果、国内で差別が起こり、差別を助長する法令などが制定された。そのため、再度、同じ内容の裁判が起こされた。アメリカの最高裁は、前判決からわずか3年後の1943年に、前判例を覆し、「信仰の自由」を認めた。歴史に残る「バーネット判決」である。おりしも第2次世界大戦に勝利し、国威が高揚しているときである。その判決文を一部紹介してこの項を終わる。

「権利章典というものの目的は,有為転変の政治論争から特定の主題を除外すること,そういう主題に多数派や当局者が手出しできないようにすること,そしてこのことを裁判所で適用する法原理として確立することにあった。個人の生命・自由・財産,言論の自由,出版の自由,および礼拝と集会の自由に対する権利とその他の基本的権利は,賛否を問う投票に付すべきでなく,いかなる選挙の結果にも依存しないものである」

2021.1.16.記

追記:2022.12.19

冒頭のヤングフランケンシュタインの事を友人と話していたら、AIが進歩すると同じような現象が起こるのではないか。鉄腕アトムが実現すれば、「人格」のようなものが存在するケースが生じる可能性もある。その時、宗教や信仰というものが生まれるのであろうか。
(死体から合成されたフランケンシュタインと電子部品を組み合わせたロボットとの違いは?宗教というものを考えるときのケーススタディになるかも。)

戻る