「戦争・人間・そして憲法9条」

「自由と正義」2007年12月号 所載

原文は縦書きのため、数字を算用数字に書き換えています

品川正治氏のプロフィール 大正13 (1924)年兵庫県神戸市に出生。旧制三高在学中に鳥取連隊に現役召集され、中国の最前線で戦闘に参加。終戦後東京大学法学部を卒業し、日本興亜損保社長、会長、そして経済同友会副代表幹事、専務理事等を歴任。現在、経済同友会終身幹事、財団法人国際開発センター会長。

品川正治氏の講演

 

ただいまご紹介にあずかりました品川でございます。

最初に自己紹介かたがた、今日のお話の一番の基本的な、私がなぜ、憲法九条をけっして手放してはならないという心情を持ったかということについて、お話ししたいと思います。

 

一身にして二世を生きた男

私は大正13年、1924年生まれでございます。福沢諭吉の言葉を借りますと、「一身にして二世を生きた男」でございます。最初の22年間は大日本帝国憲法下で、後の60年は日本国憲法の下で生きてきた。その二世を私自身、経験してきました。小学校に入った年に満州事変が始まり、中学に入ったときに日中戦争が始まり、高等学校に入ったときに太平洋戦争が始まった。それで高校2年生で、私は京都の第三高等学校でございましたが、2年生で現役召集という形で入隊し、直ちに戦地に送られ、明け暮れ戦闘に参加しまして、私自身、迫撃砲の破片がまだ足に留まっております。そういう、いわば正真正銘の戦中派でございます。

ただ、その正真正銘という意味の一つは、私自身の思想を形成する時期に、軍隊に入ったということでございます。誰かに騙されたり、甘言につられて、あるいは軍国少年気取りで軍隊に行ったんではございません。この国の国家理性は大丈夫なのか、この戦争は本当に正しいのか、その問題は片時も離れませんでした。それと同時に、当時は高等学校に入るのがいわゆる受験勉強だったんですが、その例に漏れず、私も受験勉強をいたしました。でも、高等学校に入ってみてびっくりしました。非常なショックを受けました。今までの勉強なんていうのは勉強ではない、学問じゃない。本当にあと2年しか生きておれない人間が学問するとは一体どういうことなんだろう。同級生の誰もが、2年以内に読み終えてしまいたい本のリストを持っておりました。私自身のことを申し上げますと、今から考えるととてつもない野心を持っておったかのように思われますが、私は死ぬまでに、あと2年の間に、カントの実践理性批判を読み終えて死にたいと思った。それも、ドイツ語でです。原書で読んで死にたい。ドイツ語のドの字も全くはじめてです。中学では英語しかありませんでしたから。しかし、私の気持ちをわかってくれた先生は、「わかった。それでは2ヵ月で完璧にドイツ文法を仕上げてやろう。夏休みからは本気でカントを読め」と指示してくれました。他の授業に出なくても、他の先生方が私を出席扱いにして下さいました。それは私だけではございません。源氏物語だけしか読まない男もおったわけです。しかし、当時の先生と生徒の関係というのは、そんな形でした。「あいつは俺の授業に出ないからけしからん」なんておっしゃる先生は一人もいらっしゃらなかった。「あの問題に取り組んでいるのなら、俺の授業には出なくてもいいよ」。そういう思いやりをいただいておりました。多くの先生は、授業が終わるごとに生徒に頭を下げておられた。と申しますのは、一浪、二浪の連中は、どんどん兵隊に取られていくわけなんです。今日の授業が最後だという授業に出ている男がいっぱいおるんですね。その生徒たちに向かって深々と頭を下げられる、そういう雰囲気の中でおりました。

 

戦争を起こすのは人間、戦争を止めるのも人間

ただ、片時も離れなかった問題は、私自身振り返りますと、国家が起こした戦争で国民の一人としてどう生き、どう死ぬのが正しいのか、これが私の基本的な問題でした。ところが、戦争を経験しまして、私はその問題のたてかたを間違っていたと、身に染みて感じました。それが今日の話の一つの主題です。戦争というのは国家が起こしたと思ったんです。それは、私のように小学校の時からずうっと戦争が続いている世代ですから、やむを得なかったと思うのですが、今、私がみなさん方にお話ししたい最大のものは、そのときの私の過ちの悟り方なんです。

戦争というのは、人間が起こすんです。天災や地変ではございません。戦争を起こす人かおるから戦争になるんです。しかし同時に、それを許さないで止める努力ができるのも人間なんです。なぜ、そういう形で問題をたてなかったのか、何のために哲学を勉強していたのかと悔しく感じましたが。もう一度申し上げますが、戦争を起こすのも人間です。それを許さず、止めることができるのも人間。おまえはどっちなんだと、それが私の基本的な戦争観としてはっきりと、あとの60年間は私の座標軸として、一度も揺らいでおりません。今のような時代なら、みなさん方はこの言葉の意味がよくおわかりだろうと思います。一体誰が、今、日本を戦争できる国にし、戦争をしようとしているのかを、容易に頭の中に思い浮かべられる。そんな今だからこそ、私は申し上げているんです。いったん戦争が始まってしまえば、いや、あの戦争は北朝鮮がどうのこうの、あるいは台湾がどうのこうの、そういう話になってしまうんです。今だからこそ、誰が戦争を起こそうとしているか、誰が止めようとしているか、それがはっきりとわかるんです。このことを、どうしてもみなさん方に訴えなければならない。それが、私か今、お話ししている非常に大きな源と言いますか、心情の一番大きな要素なのです。

 

経済人としての座標軸

戦後、私は経済人として生活してきました。経済に関しても、私、その見方が変わらないんです。今の日本は、市場原理主義という格好で政策の大半がそれに彩られてしまっている。しかし、私はどうしても、例えば、医療や福祉、教育、環境、そういう問題は人間の努力だという想いを捨てることができません。そんなものを市場に任せる、それは許せない。私自身、経済活動をやる場合でも、それが基本的な一つの理念なんです。現在の主流の方とはそこで激しく対立しております。しかし、私はその点に関しても一歩も譲っておりません。その人間の努力の先頭に立つのが政治じゃないか。一体、それをすべて市場に任せていくのが正しいなんて、誰が、どこから、そういう論理を導き出せるんでしょうか。私は断固としてそれには承服しかねる、その立場で現在の経済活動も続けております。

私は戦争に行きましたのが、高等学校2年生のときです。鳥取の連隊に入隊いたしましたが、その日に、私は強いショックを受けました。軍隊というものに関する想像力は十分働いていましたけれども、連隊長が、現役入隊した100名前後の人たちを最前列に並べて、全連隊の将兵を集めて訓辞をされた。極めて短い、ショートフレーズの訓辞でした。「今日入隊したこの男たちの顔をよく見ておけ。この男たちを殴った男は、俺は切るぞ。この男たちは死にに行くんだ。わかったか。」それだけです。私も覚悟はしていたものの、入隊したその日に「この男たちは死にに行くんだ」とはっきり言われたことに、ショックを受けたのです。

私自身は、野間宏さんや五味川純平さんが縷々書いておられるような、軍のいじめを率直に言って経験したことがないんです。最初の訓辞のせいだけではございません。いきなり前線に、入隊して2週間で前線に出されたわけなんですが、私は擲弾筒手でしたから体に12発の手榴弾を巻き付けて持っておるわけなんです。そんな男、殴れないですよ。その晩に戦闘が始まったら、私のそばには、殴った人が近づいてくることができなくなってしまう。そんなわけで、私たちの部隊は、上官から気合いをかけられるという意味のいじめは経験していませんが、逆にそれだけ激しく、毎日、戦闘態勢を崩さずにいた部隊でした。

 

戦闘の体験を語ることは、トラウマとの闘い

ただ、一言、法律家の皆様に申し上げておきたいのは、戦争体験というのは一括りができないということです。私の戦闘体験は、ニューギュアやレイテ、あるいはビルマのインバールで闘った方たちの前ではおこがましくて言えません。その方たちは7割から8割が餓死しておられるんです。餓死というのはものすごく惨めです。しかも、その餓死の実情は、まわりに一切口に入るものがないというのではない。食べ物を探す体力も気力もなくなって、もう俺はここで死ぬから置いてってくれという形で、餓死しておられるんです。そういう方たちの前では、私の中国戦線での体験は一歩下がってしかものを言えません。

もう一つのカテゴリーは、硫黄島だとか、沖縄、サイパン島、アッツ島。こういう戦線におられた方の場合は、玉砕するしか方法がない、勝つ見込みが全くない中での戦闘なんですね。必ず玉砕するという、そういう方たちの前でも、私の戦闘体験をああだこうだ胸をはって言うわけにはいきません。そういう意味で、私たちのような、戦争を知っている世代の記録を、オーラルヒストリーと称して何とか残そうと、みなさん努力しておられますが、私は、それは非常に難しいと率直に申し上げています。過酷な戦線、悲惨な戦線で戦争に参加された方の体験を語れというのが、無理なんです。「あなたは、なぜ生き残ったの」という一言は、その人の60年間のトラウマを容赦なく突くことになってしまうんです。今の倫理でその問題を見ること、今の価値観で問題を見る人の前では、しゃべりたくないというのが率直なその人たちの感想なんです。しかし、戦争の記録の大事さもあります。どういう形で戦争体験の記録をまとめ上げるか、今のこの時代、ぎりぎりの瞬間だろうと思います。現代の持つ特殊性、現在の持つ特殊な時代だと思うんですね。もう、今の閣僚たちは誰一人戦争を知りません。私たちがおそらく最後の世代だろうと思うんですが、いわゆる戦闘を知っているというのは、戦争体験というのは人によって随分様々だということを申し上げた次第です。

もう一つ、みなさん方に申し上げておきたいのは、日本の戦争は8月15日で終わったと言われています。しかし、中国の戦闘部隊だけは11月なんですよ、武装解除されたのは。すでに国共内戦が始まっており、日本軍が武装解除してしまうと、そこは空白地帯になる。そういう意味で重慶政府は武装解除してこないんです。逆に弾薬をどんどんどんどん送ってくる。そのときの私の隊長は非常に人格的にも傑出された方で、内地に帰られた後、超大会社の社長を務められた方ですけれど、その方のお陰で我々は全く助かりました。弾薬がどんどん送られてきたその日に、夜間演習を命ぜられました。「一発も残さずに演習で使ってしまえ」という命令なんです。すごい演習をやるわけです、実弾で。それを共産軍のスパイも、国府軍のスパイも、みな、見ております。こんなものすごい部隊に攻撃をかければ、どれだけ命があっても足りないぞと思ったんでしょう。8月15日以降、一度も襲撃を受けたことがなく、一度も中国兵に向かって弾を撃ったことがないという、希有な経験をしております。

 

よれよれの新聞に「戦争放棄」を謳う憲法草案が

最近封切られた映画で「蟻の兵隊」というのがございます。あれは私のいた場所の隣、山西省です。私はその隣の河南省、黄河の南におりました。あの映画で、はじめて戦争後の日本軍がどんな状態だったか、一般に公開されるようになったんですね。ただ、中国には100万の陸軍がおりましたが、そのうちの90%は占領軍として、アメリカのマッカーサーが日本を占領したときと全く同じ格好で、中国の大都市を全部占領しておった。その人たちは早くに武装解除されております。8月の末から9月にかけて。

ところが、私たちの戦闘軍は、国共内戦に完全に巻き込まれておったことで、遅れて11月になって武装解除されました。その後、鄭州という町の郊外に広大な捕虜収容所があって、そこで我々は、多いときで5000人近い日本兵だけで暮らしておったんです。ところが、そこで軍隊内部に激しい対立が起こりました。陸軍士官学校を出た将校たちを中心に、あるいは司令部付、参謀部付のような方を中心に、猛烈な署名運動が始まったんです。署名運動というよりも、日本政府に対する弾劾書というのを、その人たちは出そうとした。当時、日本政府は8月15日を敗戦とは呼ばず、終戦と呼んでいました。「それはけしからん、卑怯だ。敗戦をはっきり認めて、国力が充実した暁にはこの恥を必ず雪いでみせるというのがこれからの日本民族の生き方ではないか。一体、民族をどう指導しようとするのか。」と、そういう激しい弾劾書でした。それに署名を求めてきたんです。署名運動といっても血書です。その人の目の前で自分の指を切って、その血で毛筆で名前を書くという、そういう血書の形での著名運動が始まった。それに対して、私たちの戦闘部隊だった人たちを中心に、ものすごい反対運動が起こりました。「何を言っているんだ。300万の将兵を亡くし、2000万以上の中国人を殺し、最後には、一瞬にして広島、長崎で20万の命を失った。我々は終戦で結構だ。二度と戦争などしない国にするというのが我々のこれからの生き方なんだ。一体、あんたたちはどんな面下げて、これから、中国やアジアの人たちと接するのか。あれだけ他国を侵略して恥を雪ぐとは何事だ。」と。それが私たち「終戦派」の基本的な理念、考えだったわけです。そのために、血の雨も降りました。しかし大部分は「終戦派」に賛同して、いったん署名した人も「署名を返せ」という運動を起こすほど、激しかったんです。

その翌年の5月1日、私たちの部隊は山陰の仙崎港に復員してきました。二日間ほど港に留めおかれたんですが、その間に新聞が配られたんです。全部隊に。よれよれの新聞です。当日に出た新聞なんていうんじゃなくて、よれよれの新聞が配られました。それは、日本国憲法草案が発表された日の新聞でした。国民に向かって、「この日本国憲法草案を国会で論議するんだ」という格好で記載されている新聞を手にしました。今の憲法前文、今の憲法九条、それがそのとおり書かれているんですよ。その新聞を見て、全員泣きました。よもや国家がそこまで踏み切ってくれるとは、我々は思っていなかったんです。これからの努力として、二度と戦争をしない国をどう創らないといけないかということを考えておった。ところが、発表された憲法草案には、はっきりと「陸海空軍は持だない」「国の交戦権は認めない」、そこまで書かれている。それを知って、「これなら生きていける」「これなら亡くなった戦友の魂も癒される」「よくぞここまで思い切ってくれた。これならアジアに対する贖罪もできる」、そういう気持ちを、本当にはじめて現憲法と出会ったその日の感動というのを、到底忘れることができません。日本の土を踏む直前に、それを知ったんです。ですから、それ以降、私の憲法との出会いの時の気持ちは、いつまでたっても消えることはございません。

 

憲法九条の旗はボロボロでも国民ば旗竿を手放していない

でも、非常に奇妙なことに、日本の支配政党といわれる政党は、一度も憲法が定めているような決意を、国民とともにしていないんです。二度と戦争をする国にはならないという決意を、支配政党はしてないんです。こんなに文化水準の高い国で、六〇年間、その状態が続いている。逆に、解釈改憲と称して自衛隊が生まれ、有事立法ができ、特別措置法が次々とつくられ、米軍とのガイドラインも論議され、今や九条二項の旗はボロボロになりました。もう最初の面影は全く残っておりません。しかし、それでも旗竿は、まだ国民が握って離さないんですね。それが今の憲法をめぐる日本の政治の状況なんです。確かに、九条の旗はボロボロです。しかし、旗竿はまだ国民が握って離しておりません。それを「五年以内に離させてみせる」と言ってきているわけですね。

憲法九条というのは、今、他の国でつくれといってつくれるものではありません。軍隊のある国、軍産複合体が経済を支配している国では、「憲法を改正して九条二項を持て」といっても、到底無理です。日本が、もし、この九条の旗竿を離してしまったら、地球上の先進国から憲法の理念は消えてしまうのです。正義の戦争などない。戦争はどんな形でも一切認められないという理念を日本がはずしてしまったら、この地球上から、中米のコスタリカという国はそういう憲法を持っておりますが、少なくとも世界のプレーヤーとしての国々の中にそういう理念、憲法を現実化することは、今すぐには無理だと思います。

しかし、21世紀は、どんなふうに考えていっても、戦争を肯定する気持ちというのは消えていく、少なくとも国民がそれを正面から問いただす世紀になるはずだと私は思います。私か今やっているのは、国際開発センターという仕事ですが、世界から貧困、飢餓、疫病をなくしていくのがニー世紀の課題だと、心から信じてやっておる仕事なんですね。その仕事を成功させる最大の決め手は、戦争をしないという九条二項、この理念です。ですから、九条の理念は、もう世界的に極めて重大な理念になっておる。紛争というのは、特にアフリカなどでは絶えず起こります。しかし、紛争がいかにあろうと戦争にはしないというのが日本の憲法なんです。その理念でアフリカ問題にも取り組んでいるのが、今の私の仕事です。その意味で、九条、これは絶対に日本が手放すことのできない、日本が手放せば世界からその理念が消えてしまうという非常に重いニー世紀の理念、宝物と考えております。これは一切手放すまい。

 

若者に伝えたい戦争の三つの定義

さて、今までの話は、戦争体験者としての語りです。もう一つ、私たちの世代には、義務として若い方たちに本当に戦争というものを伝えなければならない。私個人の私事で恐縮なんですが、私は一人息子の夫婦を亡くしまして、孫娘を小学校の時から私が育てて、今や大学生になっております。この娘にどう戦争を伝えるか、これは私の義務だと思って、今まで考えてきました。大学に入った彼女たちに向かって、どう説明するのが一番良いか考えて、私は三つ、戦争に関する定義を与えることにしました。

まず一つ目。「戦争ということになれば価値観が転倒してしまうよ」と。「勝つため」ということが最も高い価値を持って、自由とか、人権とか、人類がこれだけ苦労して手に入れたそういう原理は、勝ってからだよということになる。勝つためという価値観が一番前に出てしまって、一番大事だと皆が思っている命、それでさえ犠牲にして勝つということになるんだよ。戦争はそういうものだよと言います。価値観に敏感な年頃ですから、それはかなり深刻に考えてくれます。

二つ目は、「戦争というのはすべてを動員するんだよ」と。経済とか労働力の問題だけではない。学問も動員するよ。人文科学も動員するよ。社会科学も動員するよ。戦争というのはそういうもんだよ。日本の場合にはそれこそ「豊葦原の瑞穂の国は」という形で神の国、皇国史観、これが公式だった。それだけじゃなく、それ以外の史観を唱えることができなかった。あのゲーテを生み、カントを生み、ヘーゲルを生み、ベートーベンを生んだドイツ民族は、文明的には随分進んだ民族だと、どなたもお考えだと思うんです。そのドイツ民族が、ホロコーストと称してユダヤ民族を500万も殺したんだよ。戦争というのはそういうものなんだと。学問をこれから始めようとする娘だけに、その言葉をかなり強く受け止めてくれております。

三つ目は、普通の国のあり方として、司法、行政、立法の三権分立はあたりまえの形として受け取られる。しかし、戦争になれば、戦争を指導する部門がその中枢に座ってしまい、三権分立は働かなくなってしまう。そういう話をします。

 

日本とアメリカは価値観を共有していない

しかし、ここで私は今日のもう一つの主題を申し上げます。そういう定義づけをした場合、アメリカが現実にその戦争をしているんだということを、日本はもっと本気で考えるべきです。ところが、平和憲法を持っている日本が、戦争をしているアメリカと価値観を共有しているというのが、今の政治経済、政財界の主流の意見なんです。「産む機械」という言葉を政治家が使っただけで、あれだけの批判が出る日本の水準です。それがなんと、「日本とアメリカとは価値観を共有している」ということが政界、財界、思想界、言論界の主流になっている。この奇妙さを、是非みなさん方に訴えたいんです。

なぜ、「日本とアメリカは価値観が違う」と言えないのか。戦争を今やっている国と戦争はしないという国の価値観が一緒なんですか? 世界で原爆を落とした唯一の国はアメリカです。落とされたたった一つの国は日本です。その価値観が一緒だと言ってしまったら、歴史をどう解釈したらいいのですか?第一、そういうことを沖縄の人に言えるのですか? 広島や長崎の人に言えますか? もし、超大国であるアメリカに、少しでも大事にしてもらいたいという気持ちから言ってるとすれば、歴史はめちゃくちゃになる。政策もめちゃくちゃになってしまいますよ。なぜ、はっきりと「違います」と言えないのか。それが私かみなさん方に是非訴えたいことの一つでございます。

結論を急ぎます。経済に関しても、今までのような「経済成長の成果は国民が分けるものだ」という考え方は修正資本主義で、本当の資本主義はアメリカ型の資本主義なんだという考えで、小泉内閣以来、進められた。小泉さんという方は非常に信念の強い方ですが、しかし、哲学はゼロだった。政治は、あのショートフレーズで国民を全部引っ張りましたが。政策はゼロだったんです。政策は全部、竹中さんに任せました。郵政改革はやりました。しかし、あれは政治です。郵政改革を経済政策と思っておられる方がいらっしゃるなら、これはとんでもない間違いです。あの郵政改革の、経済政策としてのビジョンは一体何なのかということになると、政策の体をなしておりません。しかし、極めて強力な政治だった。敵対する勢力は全部郵政改革でやられました。そういう意味で、現在進められている経済政策も、日米が価値観を共有しているという前提ですべてが進められている。これが私にとっては憲法九条の問題と全くパラレルで、人間の努力というものをどこかに、むしろ消してしまう方向で世の中を動かそうとしている。

資本の力だとか、国家の力だとか、抽象的なものではない、生きている人間の力が大事です。戦争を起こすのも人間、止めるのも人間。それと同じように福祉や環境問題に取り組む、医療、教育、これは人間の仕事なんだ、努力なんだというふうに、どうしても私は確信していきたいのです。

 

日本国民の行動で世界の歴史が変わる

では、今のままで日米の関係が変わり得るでしょうか。「日本とアメリカとは価値観が違います」と言えるでしょうか。もしそう言った場合、どんなことになるのでしょうか。私は外交官が集まった席でお話をしたことがあります。「あなたたちの力で日本とアメリカとは違うということを言い切れますか? 納得させることができますか?」「それは品川さん、無理なんです。できないのです。しかし、できる方法は一つあります。日本国民が言うことです。」と言われました。外交官自身からですよ。それができるのは日本国民だけなんだと。「あなたが問題にされるような事態を変えられるのは、国民の力だけなんだ。国民投票で、憲法九条を改正することに国民が『ノー』と言ってしまえば、アメリカと日本とは価値観が違うということを世界に宣言したことになる。それは単に日本のこれからのあり方だけの問題ではなくて、世界史も変えるだけの大きなことなんだ。それができるのは国民だけなんですよ。」そうおっしゃったんです。現役の方たちから、拍手が出ました。現在の各国大使クラスの人たち、局長クラスの人たちは、本当は言いたかったんでしょう。それを私か挑発した格好になったのかもしれません。しかし、外交官の囗からそれを聞きました。

日本の国民の出番が来ました。アメリカの世界戦略を変えることができるのも、日本国民の肩にかかっています。世界第二位の経済大国の国民が、「資本主義のあり方もこれで行きますよ」と言って堂々としていればそれでいいんです。日本の資本主義のやり方が間違っていたら、こんな世界2位になんてなるはずはないんです。1人の外国人をも、主権の発動として殺さず、軍産複合体を持たないで世界第2位の経済規模を築き上げた日本に、もっと自信を持っていいのです。おかしいと思うことはおかしいと、はっきり言えばいいんです。それが言えるのは国民だけというのは、国民の出番が来たということじゃあないですか。憲法問題のみならず、この国のあり方、世界のあり方に関して国民が傍観者じゃない立場になったんですから。日本の国民の行動が、世界史全体を変えるような、こんな時期というのは、今までの歴史上私は知らないです。

私は83歳まで生きながらえて本当によかったと、率直に感じております。こういう時期に巡り会い、しかし、国民のノーという声が形を見るまで私か活動できるかどうか、もう無理だろうと思いながら、しかし今こそ訴えないと、この訴えるべき時期を自分が荏苒と過ごしたとしたら、’これは一生の悔いになってしまうと思って、みなさん方にこういう形で、本当はもっと冷静に話をすべきことなんでしょうけれども、私の訴えとしてお話しした次第でございます。どうもご静聴ありがとうございました。

荏苒(じんぜん):のびのびになるさま(草ぼうぼうの状態:永原)

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