そのうちに 2021.10.

2021年10月分です

 

2021.10.26. 小室眞子さん

①記者会見の一部をニュースで聞いた。

②自身の思いを、今日から発言できるようになった。

③大きな「自由」を手に入れた。おめでとうございます。

④ある意味、「革命的」。暖かく見守りたい。

11.3.追記

①憲法は、「公共の福祉に反しない限り、基本的人権は尊重される」と規定している。その後の経過を見ていると、二人の人権が守られていないことが明らか。一方、二人は「立場上」、自由に行動・発言する範囲は制約される。一人では買い物にも行けない状態である。

②手足を縛って、さるぐつわをして、抵抗できないことをいいことに、いじめているようにしか見えない。マスコミも「人権」にはほとんど言及しない。日本社会の人権意識の欠如を嘆くのは、私だけであろうか。

2021.10.26. お茶漬け

①落語家の話の、うろ覚えですが・・・

②師匠が弟子に、「今日はうまいものを食わしてやる」。連れていかれたのが高級寿司屋。
なにが出てくるか、楽しみにしていると、出てきたのは「鯛茶漬け」。
師匠が言うには、「これが食えるようになるまで、何年かかったことか」。
一見の客ではできないこと。

③確かに、材料はすべて超一級品。どんなに美味しいかは想像に難くない。しかし、価値はこれを「注文できる」人間関係。師匠が弟子に何を伝えたかったかは、知る由もないが、おいしいものを求める「努力の成果」だろう。

④友人の不動産屋の言うには、ネットに出てくる物件は「売れ残り物件」だそうだ。良い物件はなじみの顧客や不動産仲間同士で流通しているという。たしかに、良い物件を手に入れた時、親しい人に譲って喜んでもらいたい。だれが買うか、どこに住んでいるかわからない、見ず知らずの人に宝物を譲るより、喜ぶ顔が見たいというのは「人情」ではないか。

⑤私も「切手」を集めているが、月に一度は切手店に顔を見せている。私がどのような切手を探しているかが分かれば、あらゆる手段を講じて積極的に探してくれるだろうし、一か月以内に売れるとなれば、安心して仕入れることができるであろう。

⑥SNSなどで、顔も知らない人と、メッセージだけでつながっている人間関係を、今一度考えてみてはどうか。ある人が言っていた、「親友はせいぜい10人まで、親しい人は100人くらい、友人は500人が限度。それ以上は親しい人間関係を維持できない」。人数については異論もあるが、おおむね納得した。しかし、そのためには想像以上の努力が必要と思う。

2021.10.23. デジタル庁

①以前、入学から卒業までの「成績処理システム」を外注したことがある。
そこで問題となったのは・・・

②システムに不都合が起こった時の対処。次に、科目数などの項目変更への対処。
そのためには、継続的なメンテナンスが必要となるが、公立学校では、そのような予算項目がなかなか認められないことであった。

③通常は、ソフトウェアを発注した場合、そのプログラムの内容・仕組みはブロックされていて、変更する必要がある場合は製作会社との別契約となる。昨年、「COCOA」が不都合を起こした時も、製作会社の責任であるにも関わらず、そのままで、その後は政府とともに「だんまり」が続いている。「GOTOトラベル」も前回のやり方から、微調整するそうだが、相当な予算が見込まれる。当該製作会社に人事異動でもあれば、ゼロからの出発になりかねない。そのために、一人1時間**円の開発費用がかかる。

④さて、デジタル庁であるが、国家事業であるために相当大規模なシステム開発が必要となる。この時、SE(システムエンジニア)はどうするのであろうか。守秘義務は当然としても、登録項目の変更など、わずかな調整でもその都度の発注になる。規模が大きくなればなるほど変更事項は増えるので、バグ(システムのミス)が予想される。免許とか保険証とか、範囲を広げれば広げるほど、危険性は増加する。

⑤統合すればするほど危険性は増すし、事故の際の影響は広まる。安全保障の意味からも、相当な危険性をはらんでいる。
たとえば、銀行の自動支払機のシステム異常がおおきな問題となっているが、運転免許の照会システムの支障が医療情報の照会にまで影響してはたまらない。

⑥さらに問題なのは、「利権」の問題。前述のように、わずかな修正でも、発注元への依頼となる。基本設計を任された会社は、ほぼ永遠にメンテナンスの発注をうける。独占になる。デジタル庁がどのような仕組みになるか不明だが、国家の情報が、ただの一社に委ねられることになりはしないか。

2021.10.15. 一太郎

①ワープロの草創期に「一太郎」が世の中を席巻していた。今となっては、知る人ぞ知る世界になってしまった。

②その「一太郎」に「自動変換」という機能があった。かな漢字変換モードで、ひたすら「かな入力」を続けていくと、文脈を分析して、自動的に漢字に変換していく。文脈を少しさかのぼって適切な漢字に再変換してくれたような、便利な機能であった。ある程度入力した後、再変換機能で修正すれば、完成。

③とても便利なので、習慣的に利用していたのだが、ある時気づいたことがある。「一太郎」に理解されやすい文章で表現する「くせ」がついてしまっていたのである。私の培ってきた、と言えば大げさだが、書き言葉の表現が「一太郎ことば」になっていた。それ以来、「自動変換」は使わないようにしている。

④最近のSNSの報道を見ていると、言葉が「SNS言葉」になっていないか。そのため、通信内容やひいては思考形態・思考内容まで「SNS仕様」になっていないか。他人と会話を交わす機会が減ってきている現状で、メール・ワープロなどは冒頭の数文字を入力すると、変換する単語の候補が次々と出てくる。候補にない単語を使うには、そうとうな忍耐が必要になる。自分の言葉・自分の表現を工夫するには、相当な覚悟が必要である。

⑤この「とりあえず」を書いていて、調べることも多いのだが、漫然と、単語検索を繰り返していると、最初に考えた内容から徐々に離れていくときがある。ある程度文脈を構成して、必要な知識を調べ、気づかなかった問題点を発見するという、「強い方向性」の必要を感じる今日此の頃である。

2021.10.14. 共産党

①最初に断っておきますが、私は共産主義者でもなく、共産党の党員でも支持者でもありません。

②岸田内閣が解散し、選挙戦の第一声が報道されました。その中で、与党とか、自民党のフレーズは当然多いのですが、野党・共産党の表現が目立ち、野党の他党の党名が具体的に発声されることが少ない割には、「共産党」という表現が多かったように思いました。特に自民党の人たちの発言に、「共産党」を意識した発言が顕著に思われた気がします。

③終戦直後の「共産党」への意識が垣間見え、私が教員であった過去の経験の中で、「共産党」=「日教組」のニュアンスがつきまとい、「めんどくさい」思いをしたことを思い出します。このあたりの思いを、この機会に、整理して述べたいとは思いますが、彼らの「きょうさんとう」という言葉の内容を、注意深く聞いていきたいと思います。

10.24.追記 : 選挙戦が始まったが、自民党は1950年代の「共産主義」のイメージを前面に押し出して選挙演説をしている。それも、個人として、ではなく、党として主張している様子が窺われる。ここで思想の内容を分析・批判するものではないが、イメージ戦略として、党を挙げて、異口同音に街頭演説する様は、ナチスの宣伝行動を思い起こさせる。自民党ともあろうものがとも思うが、そこまで追い詰められているのかと、与党としてマイナスイメージは免れない。

⑤戦時中、政府は共産党員を非国民と呼び、国民を団結させるためのスケープ・ゴートとして利用した。戦後、教育界は戦前の軍国主義教育への反省から、急速に民主主義教育へと転換した。その中心となったのが日教組であり、その急激な変化を恐れた政府が行ったのが、日教組=共産党のレッテル張りであった。確かに教員の中に、共産党員が多数いたのは確かである、が、終戦時、社会の大変革の時期の教員の意識を考慮するなら、当然のことと思われる。

⑥戦後70年が経過したのちも、「共産党」の呼称を「非国民」と同意語として利用されることがしばしばである。私自身は、現在の共産党の政治理念を詳しくは理解していないし、その真意は知る由もないが、主張は「正論」と思うし、与党の批判には戦後の感情が色濃く表れていて、現在の政治論争の要点とはかけ離れているように思う。自民党の危機感と、70年前の感情に頼るという「なさけなさ」を感じる。

2021.10.14. 解散権

①岸田内閣が解散した。解散権は総理の特権事項で、「殿下の宝刀」と言われているが、根拠は憲法七条。皆さんご存じとは思いますが、念のため。

②憲法七条は、
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
この後、第十まで続きます。

③天皇の国事行為は「内閣の助言と承認」のみに限定されています。「内閣の助言と承認」なしには、何もできないし、やってはいけないことと、憲法で定められています。しかし、内閣は総理大臣が指揮していますから、総理大臣の決断で「解散」を閣議決定できるわけです。

④一方、憲法の条文を注意深く読み解けば、その意味は、大切な「国事」は天皇の言葉で国民に公布することであり、内閣、つまり行政が国政に必要と認める事項であり、何よりも「国民のために」行う「国事」であるはずである。決して総理大臣の「専権事項」ではないはずです。

⑤いつのころからか、この条文が都合よく解釈され、現在に至っています。念のため、ここに記載しておきます・

2021.10.3. 熊鈴

①熊除けの鈴。最近、野生動物が人のテリトリーへ侵入する事件が相次いでいるせいか、一般の登山者が「チリンチリン」と鈴をつけていることが多くなった。
上高地で、列をなして歩いているときも、食堂でも、山小屋の中でも「チリンチリン」。

②私も熊にお目にかかったことはあるが、めったには無い。50年に3回。事件が起こるのは、まず、薄暗い時間帯の「出合がしら」。カーブにさしかかった時は、思いっきり「人の気配」を振りまくことにしている。次は、山菜採りやキノコ採り。これは熊も人間も「目的は同じ」、おいしいものを目掛けて夢中になるから仕方ない。人間は仲間に知られたくない一心で、「こっそり」「ひとりで」行くから始末に悪い。昔はラジオをがんがん鳴らしながら行ったもの。最後に、熊のテリトリーへ入ってしまったとき。これは熊に謝るしかない、一般の登山では可能性は少ない。登山での熊の目撃情報は「遠目」がほとんど。

③最近思うのだが、マスクは習慣化しないと「個人的に徹底する」ことは難しい。しかしワクチンは「他人がするから」ではなく、個人の判断が重要と考える。
山の中でまったく人がいないところで、マスクをしている人もいる。雪や砂が靴に入るのを防ぐための「スパッツ」をバスの中からつけて、夏山に向かう人がいる。ひところ「ツアー」で山に入るとき、「参加要項」に書かれている通りの装備テェックが浸透しているのかもしれない。山岳雑誌のファッションも影響している。

④アルプスのトレッキングの写真が広まったせいか、ストックを登山に利用することがはやっているが、岩場や急勾配の登山道で使用するのは、危険極まりない。落石を誘発するし、転倒した時「手がふさがれて」安全を確保できない。それでなくても、「浮石」(安定性のない岩・石)の原因にもなる。最近、穂高などでも落石が頻発し、ヘルメットの着用が推奨されているが、本末転倒の感がある。

⑤マスクの着用が、日本での感染拡大を抑制する大きな要因であったと思うが、「なにも考えないで」周囲に倣うという風潮が増しているように思う。熊鈴は耳ざわりであるが、小鳥や小動物も遠ざける原因にもなっている。「自然」をもとめて、山に入っているのに、である。まして、マスクで呼吸困難を起こしては、何をしているのかわからない。

 

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