AERA(2022.11.2)

内田樹「国旗・国歌にどう接するか当惑するところからほんとうの意味での民主主義が始まる」

2022/11/02 07:00

哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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国歌斉唱に唱和することを拒否する教師と、なんとか歌わせようとする校長たちの対立を描いた「歌わせたい男たち」という永井愛さんの戯曲がある。その再演のパンフレットに寄稿を依頼された。国旗・国歌という国の象徴に対して、市民はどういう態度で接すべきか。デリケートな問題である。私は「当惑する」というのが日本国民としてのあるべき構えだと思う。当惑した後歌ってもいいし、黙っていてもいい。当惑することがたいせつなのだということを書いた。

合衆国最高裁は国旗損壊を処罰する州法を違憲としている。国旗損壊によって政府への批判の意思を表明することは表現の自由に含まれると考えるからである。ある判事は補足意見として「痛恨の極みではあるが、基本的なこととして、国旗はそれを侮蔑する者をも保護するのである」と記した。私はこの判事の葛藤を健全なものだと思う。

国旗損壊をやめさせようともし本気で願うなら、行為を処罰することによってではなく、そのような行為を誰も望まなくなるような素晴らしい国を創り出すことが正しい行き方である。国民に豊かな表現の自由を許すことのできるほどにその判断力を信じられる国だけが国民からの真率な敬意の対象となることができる。

理屈としてはそうだ。ただし、これはよほどの決意がないと口にはできない言葉である。だが、民主政の「公人」であるならこの「痩せ我慢」には耐えなければならない。

今の日本の政治家のうちに日の丸・君が代への敬意を醸成するために必要なのは「敬意に値するほどに市民的自由を尊重する国になることだ」と言い切る人がいるだろうか。「いいから黙って敬意を示せ」と強制する人と、「それは内心の自由の侵害だ」と抵抗する人の2種類しかいないように私には見える。対立はあるが葛藤はない。「どうすれば人々は国旗・国歌に自然な敬意を示すようになるだろう」という根源的な問いは誰も口にしない。だが、国民の信託に値するに足る統治機構を創り上げるために私たちには何ができるかを国民がまず自分に問うところからしかほんとうの意味での民主主義は始まらない。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

※AERA 2022年11月7日号

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