争点3

(3)「不当な支配」について
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旧教育基本法第10条、「不当な支配」について述べます。いまから70年前の1945年8月15日、こどもたちの教育に携わっていたわれわれの先輩たちはどのような気持ちでこの日を迎えたのでしょうか。国が戦争に向かい、突入していく中でどのような気持ちで教壇に立っていたか。間違っていると感じたことがらでも、社会の趨勢のなかで、真実だとこどもたちに教えてきた、教えてこざるを得なかった。戦争の終わったこれからの時代に、子供たちに何を教えていけばよいのか。
裁判官の皆様に対しては「釈迦に説法」と言われることを覚悟で、私の想いを述べさせていただきます。
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第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
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「国民全体に対し直接に責任を負って」という言葉は、「自己の良心に従う」こと、「自己の良心に忠実」であることではないでしょうか。直接に責任をとるということは、どんな人の前でも自己の良心を開陳できる自信と勇気をもつこと以外には考えられません。もちろん、ひとり個人の考えやわがままな意見であってはいけません。職員集団による慎重な検討を経ることが必要です。10条は、続いて、
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2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
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として、教育行政の目標・範囲を「諸条件の整備確立」にとどめています。私は「諸条件」の中に、教師が「自己の良心に忠実に教育を行うこと」が含まれていると考えています。現場の教師が安心して働ける環境を保証することが教育の目的を遂行するためにもっとも大切なことではないでしょうか。本件に照らして言えば、教育の現場を守るべき立場の教育委員会が、加害者の役割を担っているのです。そのため、現場が立ち上がらざるを得なかったのです。
政治が教育に介入するとき、なにが起こるか。そういう状況が起こらないためにはどうすればよいのか。教育行政はそれらの権力から教育現場を守らなければならない。1945年、多くの犠牲をはらって得たものがこの第10条のことばだと思います。一般的に支配というものは一方的な強制と脅迫をともない、強制と脅迫の伴わない支配はあり得ませんから「不当な支配」という言葉になると思います。「不当な」は「支配」にかかる形容詞ではなく、「支配(=不当)」の意味を表現しているのではないかと、私は考えています。
残念ながら教育基本法は改訂されました。改訂の意図は、新旧、両者の条文を比較すれば明らかでしょう。しかし、旧法で述べられていることが真実であることに変わりはありません。幸い「不当な支配」という言葉は残りました。「不当な支配」は、あってはならないことに変わりはないのです。
私の理解では、憲法や教育基本法など「基本法」は理念を指し示すものであって、その解釈は裁判所の判例で確定していくものだと思います。新法に残った「不当な支配」という言葉の意味を司法が深く判断して、これからの時代に生かしていく責任があるのではないでしょうか。
原告の陳述書より抜粋