正確には「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件」といいます
裁判に訴えるのは事件が起こった後からというのが通例です。東京「君が代」裁判でも多くは、事後に処分の撤回を求めて行われてきました。しかし、10.23通達は懲戒処分を振りかざし、職務命令によって強制を押し通そうとするものであり、これが実行された後では、思想・良心の自由、表現の自由への侵害という「回復し難い重大な損害が生じる」こと、また、憲法・教育基本法が定める「教育の自由に対する重大な侵害」となることは明らかです。こうした不法な行政行為に対しては、事前に、予防的に「通達」無効の確認を求める抗告訴訟を起こすことができます。「予防」訴訟と呼ぶのはこの意味です。
東京地方裁判所の難波孝一裁判長は2006年9月21日の判決で明快にその違法性を指摘しました。
この判決は、高裁で覆され、最高裁が上告棄却としたことで高裁判決が確定しましたが、その論理の明快さで評価されています。
最高裁判決に対する原告団・弁護団声明は こちら
次の文章は、地裁判決の後、弁護団団長 尾山 宏 弁護士の声明文です
9.21判決の意義(弁護団長 尾山 宏)
久しぶりに司法がその存在意義を示した—-今回の判決は、そういう判決である。
その意義のとくに重要な点を判決内容に即して言うと、以下のとおりである。
第一にこの判決は、10.23通達とそれに基づく校長の職務命令を教師の思想・良心を侵害し憲法19条に違反することを明言した。これまでの先行諸判決が思想・良心を侵害するものではないとしていたことと対比すれば、その意義は明らかであろう。
判決がこのような結論を導いた最大の理由は、憲法が民主主義の中核をなすものとして高い価値を認めている思想・良心の自由の、その高い憲法的価値を終始一貫して受け止めているからに他ならない。
思想・良心の自由を軽く考えているからこそ、「公務員としての職務の公共性」により教師の思想・良心の自由は制約されるという謬論にいともたやすく結びつき、その思想・良心の自由を切り捨てて憚らないことになるのである。
この判決が思想・良心の自由に高い価値を認めていることは、判決の随所に見出すことができる。例えば判決は「職務命令が違法であった場合に侵害を受ける思想・良心の自由等の精神的自由権にかかわる権利であるから、権利侵害があった後に・・・事後的救済には馴染みにくい権利である・・・」と述べている。このことが国歌斉唱義務や処分の差し止めを認める根拠になっている。
第二に、この判決は、先行判決が述べていた外部的行為と内心とを分断する欺瞞的な「論理」を、「不自然」だとして明確に退けている。
第三に、この判決は、「我が国において、日の丸、君が代は、明治時代以降、第二次世界大戦終了までの間皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられたことがあることは否定し難い歴史的事実」と明言している。このことは目下重大な問題になっている歴史認識問題と深くかかわるものであり、右翼的潮流が覆っている現今の我が国社会では大変に勇気と見識のある判示だと言わねばならない。
第四に、10.23通達及びこれに基づく校長の職務命令が、「不当な支配」に当たり、教育基本法10条に違反することを明確にした点である。この部分は、10.23通達等が思想・良心の自由に対する必要最小限の制約と言えるかという論点についての判断の中で示されているのだが、そのようないわば消極的な意義にのみ受け止めるべきでなく、10.23通達の違憲性に加えて違法性を指摘し、二重の断罪を加えていると積極的にその意義をとらえるべきである。このことは傍若無人な10.23通達体制に対して法の鉄槌を加えたものであり、まことに痛快の極みである。
さらにこのことは、国会における教育基本法改正問題に波紋を投げかけないではおかない。教育基本法(とくに同法10条)は、戦前における国家の教育への権力統制が我が国をファシズムから敗戦へと、導く上で重要な役割を果たしたことへの真剣な反省から制定されたものである。喉元過ぎれば熱さ忘れるで、戦前の過ちをすっかり忘れ去ったことが、今の教育基本法改正の動きとなって表れているのである。しかし10.23通達は、戦前の過ちが現在においても繰り返されることを明白にしている。国会でのこの点の厳密な論議を切望したい。(2006.10.1)