争点2

(2)「信教の自由」について
 「宗教」について考えるとき、その範囲はキリスト教をはじめとする三大宗教からはじまり新興宗教・土俗信仰と呼ばれるものまでさまざまな形態をとります。また、その宗教を信仰し、帰依しているかどうかは個人の内面的な問題であることから、裁判所も含めて他者がその信仰の内容を判断することはできない。. だからこそ、「信教の自由」を憲法に明記し、その自由を無条件に保証する必要があります。
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われわれが社会生活を営むにあたって、「信教の自由」を無制約に許すことができないことは当然です。この領域に対してさまざまな法規があり、それに対しての裁判所の判断の余地があると考えます。
そこで、「信教の自由」として憲法により守られる条件を考えるとき、
(1)信仰に対する真摯な姿勢
(2)社会生活への影響
という二つの判断基準が考えられます。
(1)については、それを訴える原告が信仰への真摯な姿勢を示すことが必要であるが、裁判所にもそれを見極める見識が求められる。そのうえで、裁判官には合憲と違憲を判断する勇気が必要となる。一方、式典に出席する生徒の中には真摯な信仰生活を送っている者が居ることも予想される。直接に教育に携わる者としてその生徒の「信教の自由」を守ることは教師としての責務である。
(2)については、裁判所がすでに認めているように、起立・斉唱の命令に従わないことは、式典の進行に対して重大な影響を与えるものではないとされている。
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最高裁の判例では10.23通達は「慣例的・儀式的所作」を命じるものであるから、教職員の「信教の自由」を侵すものではないとされるが、10.23通達は儀式の内容を詳細に規定し、その実施を強要することにより慣例化させようとするもので、論理的に理由にならないと思う。「信教の自由」は内心の問題であり、それを「所作」の問題にすりかえて、問題点を矮小化している。
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憲法の条文
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
(3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(私見)憲法の成立過程を考えると、この条文は戦後の混乱期に欧米の憲法の条文を参考にして作成されたものと考えられる。
そう考えると、「何人に対しても」は「人種・国籍にとらわれず」と読み解くことができ、後半は宗教活動における「政治権力」の利用を禁止している。逆に見ると、政治的弾圧からの保護を保証している。
また、第2項は単なる「参加」ではなく、「強制されて参加」することは「改宗」の強要と読み取れないだろうか。欧米の歴史をみれば、宗教的な争いに起因する紛争・戦争の歴史である。だからこそ、「信教の自由」を憲法に記載して保証する必要があるのではないか。
日本では、人生の折々の場面で、神道・キリスト教・仏教などのさまざまな宗教を受け入れる下地がある。人生の生き方と密接に結びついた宗教を、なかなか受け入れがたい面がある。だからこそ最高裁が判示するような、「慣例的・儀式的所作」という不可思議な表現がまかり通っているのではないか。
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