そのうちに 2023.10.

最近、もの忘れが激しく、そのうちに記事にしようと温めていると、なんとなく・・・

そのうちに、まとめて、OPINION のページに入れますが・・・

というわけで、そのうちに、そのうちにと言って、毎日が・・・

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2023.10.30. 「無限」ということ

久しぶりに数学を考える気持ちになった。

①ひとつ、ふたつ、みっつ、という「数詞」の発達が言語・文化の発展と関係しているという。幼児であれば途中で「たくさん」といって終わりになる。最近は、キロ、メガ、ギガ、テラ、・・・。小さいほうでは、ミリ、ミクロ、ナノ、・・・。中国では「・・・無量、大数」となる。いずれも「有限」の範囲で際限がない(笑)

②では、多くの人の知っている、円周率「π」はどういう理解なのであろうか。循環しない無限に続く数、と理解していると思う。しかし、その「理解」は、実は「知識」なのであって本当の理解ではない。数学に微分積分という分野があるが、この理解には「無限」という言葉の数学的理解が必要で、日本では高校3年で学習することになる。なぜ高校3年か、なぜ18才かということに疑問を持つ人はほとんどいないが、実は精神年齢の成長が関わっているという。

③話を戻して、1/3=0.3333・・・と思われているが、両辺を3倍してみると、1=0.9999・・・となる。たいがいの人は、???で済ませてしまうのだが、ここが理解できるかどうかが勝負になる。
0.9999・・・は「無限に続く数」と考えられているが、数学では「無限に1に近づく数」と理解されている。したがって、1=0.9999・・・(同一と理解すること)は当然の表現になる。円周率の3.14159・・・は具体的な有限の表現の方法が無いのでギリシャ語の「π(パイ)」で表している。このような数はわれわれが知っている数(自然数・分数・有理数・平方数・・・)と同じくらいたくさんあって、それらで実数が構成される。それを「連続」と理解する。
詳細は「数について」(こころに残る本)。

④高校生に教えていると、「近づいていくことは理解できるが、絶対に到達しない。等しくはならない」として、1=0.9999・・・を受け入れない場合が多い。このあたりを素直に受け入れることが出来るかどうかが「数学の理解」の第一歩と思う。

⑤私は理解できていないが、物理学を理解する上での「物質と素粒子」の関係のような気がする。物質を小さく小さくしていく作用と、ビッグバンで作られる素粒子(見たこともないし見ることもできない、それなのにいっぱいある)を理解することは「センス」が必要。

2023.10.28. 登山時の服装

①今年の山岳事故を見ていると、経験不足からの無謀登山が多いようなので、基本的な服装の注意をまとめてみたい。

②私は登山時の服装を質問されたとき、防寒・防水・防風の3つの視点から準備することを勧めている。

防寒は、予定のコースで何が起こっても一夜を耐えられることが条件。羽毛は優れた断熱材ではあるが、いったん水に濡れるとなんの役にもたたない、羽毛の寝袋を乾かすことは至難。取り扱いがとても難しい材質だということを肝に銘じておくことが大切。ときどきザックの上に寝袋を括り付けている人がいるが、雨で濡れたらアウト。何かの拍子にはずれたら谷底へころころ。直接命にかかわる状況になる。

防水。羽毛の装備は完全防水が原則。着替えの下着とともにザックの中にいれておくこと。以前北海道でツアー登山でびしょ濡れになった事案があったが、テントに避難できたのに疲労凍死が続出した。原則は、下着まで全部着替え、翌日行動するなら、出発前に濡れた服を着て、乾燥した衣類一式は確保すること。すべてが濡れて風が吹けば夏山でも危ない。

防風。霧を含んだ暴風が吹きつけると、気づかないうちに下着までびっしょりとなる。風で体感温度はぐんぐん下がり、意識はあるように思いながらも自分の名前すら言えない状況におちいる。これは私の若い頃の実体験。今年の那須の遭難はこのような状況だったと思う。

⑥私も怖い思いを何度か経験して今があるが、基本は経験者から実地で学ぶ必要がある。私は単独行が原則だったが、近所の裏山から始めて徐々に長いコース・難しいコースへと発展させた。自分の力で脱出できないコースはあきらめるしかなかった。それが登山というものだとおもう。

2023.10.28. 自分で考える?

①ハロウィンが近づき、渋谷は厳戒態勢のようである。多くの外国人は「私の国では路上飲酒は禁止されている」という。日本の若者は「禁止されているわけでもなし」と言い、観光客はそれを見て「日本人がしているから」と真似する。

②確かに、多民族国家の国では習慣も考え方も異なるので「ともに共通して守るべき約束」を定める必要がある。一方、日本では「お互いの迷惑になるから」という共通理解があり(あった?)見えないルールとして成り立っていた。私がよく引用する「おてんとうさまが見ている」である。

③在職中、問題を起こした生徒の言い訳の1つが、「俺だけじゃない。みんなしている」であった。そのことの是非を考えるのではなく、周りがどうしているかで流され行動した結果である。よく、教師が思い間違いをするのは、教師の言ったとおりに生徒が行動すると「指導力がある」と勘違いすることだ。教師が口うるさいからそうしているだけの場合が往々にしてある。その行動が身に着けばそれで良いのだが、それは「しつけ」の範疇だと思う。

④話はがらりと変わるが、先日、卓球の早田ひなさんを見ていて、一球一球のやり取りを頭の中で再現して次の一球に生かしているようだ。この態度は伊藤美誠さんや、大谷翔平さんや藤井颯太さんなどの行動や言動からも伺える。トップに立つには自分で考え工夫するしか方法が無いことを示している。むかしは「監督の指導」が絶対で、指導に従うことが強くなることであった。しかし昨今では、丸刈りが良い悪いではなく、丸刈りの意味を考えているチームが力をつけているように思える。

⑤さて、どうすればそういう「教育」ができるか。わからないままに終わった。少なくともSNSに象徴される現代社会は、そのような方向に向かっていないような気がする。「公文」は「しつけ」だと思う。自分で考えるには、好きなことと取り組むしかないように思えるが、どうだろう。(しつけはしつけで必要不可欠。しつけるべきことを考えながらしていては、日が暮れる)

追記 : 自国では禁止されている。日本では禁止されていない。
禁止するには禁止する理由がある。その理由を知れば、いけないことだと思うはず。理由も考えず禁止されているからやらない。この論理は日本では、「小学生でもわかる」はず。そのレベルですら思い至らず、禁止されていないのなら「いいじゃないか」。これは外国人だけではなく、日本人も思い返さねばならない。「おてんとうさまが見ている」の意味を考える必要があるのでは。

2023.10.27. 10.23.通達20周年③

①職員会議で話し合われた状況を記憶の中で振り返ってみます。

反戦の意味から : 敗戦の時、教育界は大きな反省を求められました。それまでの軍国主義教育から180度方向転換を求められたわけです。憲法9条の「戦争放棄」や教育基本法の「不当な支配」などを、子供たちに「教育する」立場になったわけです。この欄でもときどき取り上げているように、「旗」と「歌」は国威発揚に利用され、進軍先では支配・統治のシンボルとして活用されました。10.23.通達は当時の教育の復活を連想させます。特に教員に対して処分をちらつかせて「指導」を強制することは、思想信条の問題を越えて、教育の世界にはあってはならないものと思われます。

教育の自由 : 「教育の自由」というと、好き勝手にやっても良いというような意味を強調するひとがいます。特定の思想や価値観・政治体制などからの自由であって、教育基本法の「不当な支配」とは「権力による支配」からの自由ということで、「国民全体」に対して責任を持つことを要求しています。教育は、教科会・学年会(担任)・職員会議を通じて様々な意見のの交換の下に行われています。10.23.通達に続いて発出された、職員会議での「採決の禁止」など教育委員会の圧力は教育の自由を奪うことを目的にしている状況です。

外国籍の生徒 : いまだに、「通称名」で生活している外国籍生徒がいます。本名では住みづらい状況は克服されてはいません。日の丸に敬礼し、君が代を歌うことを強いるのは教育の世界では避けなければなりません。「日本に住んでいるのだから」とか「日本の学校だから」という人がいますが、差別を受けている人たちの立場で考えるべきです。先日、第5次訴訟の弁論で、その苦しさが伝えられました。彼らの曽祖父や祖母たちは占領下で暴力的支配を受けていますし、彼の家族すら「生きにくい」生活を送っていることを知るべきです。

信仰の自由 : 正直なところ私も「信仰」を持たない人間で、信仰する宗教を持つ人の気持ちを完全に理解できません。しかし、教義に反する行為を強制することは、してはいけないことです。中東でキリスト教徒とイスラム教徒が戦禍を交えていますが、自己の信仰を正当化するところから始まっています。まず、信仰を理解する努力と寛容さが大切で、理解できないから考えない、では争いが絶えないと思います。

「強制」に反対 : 10.23.通達は人により様々な想いで問題視されていますが、20年たって、「強制」という言葉に収斂してきています。1次訴訟の法廷で裁判長が「教育も強制でしょ」とつぶやいたことが記憶に残っています。教育は「強制」を伴ないます。だからこそ教員集団は慎重に話し合い、生徒の立場に立って指導するようこころがけています。10.23.通達は処分をすることを明言し、教師に一定の価値観に基づいた「教育」を強制しています。さらに職員会議での「採決禁止」により、話し合うっことすら禁止しています。

その他 :

次回は 「予防訴訟」とは

2023.10.24. 10.23.通達20周年②

当時の学校の状況

①10.23.通達が発出されたころの都立高校の状況。私、永原が都立高校の教員となったのは1975年(25才)であった。10.23.通達はその28年後の事でした。

②1975年当時から年が明けて卒業式が近づくと職員会議の議題として「式次第」が取り上げられることが通例になっていた。校長が教育委員会の通達に基づいて日の丸の掲揚と君が代の演奏?を提案。都教組(東京都教職員組合)のスタンスとしては反対の立場をとっていた。右も左もわからなかった私としては、戸惑いながらも先輩の発言を理解するのが精いっぱいの状況でスタートでした。

③校長は終始、沈黙を守り、教頭は教育委員会の通達を「お願い」モードで繰り返すばかり。職員はそれぞれの体験や経験、クラスの現状を理由に反対意見。論点がすれ違って、議長も裁決に移れない状況が延々と続いた。例年、議案は否決され、最後に校長が「職務権限」で実施を指示していた。学校によっては職員が強硬手段で阻止しようとしたことまあったがごく少数。マスコミもそれなりの反応であったと思う。

④日の丸については、校長にもよるが、壇上正面に掲げる学校は少なく、三脚に立てて壇上横に設置する学校が多いようだった。(ちなみに、国際的には三脚が正式。壁面に張り付けるやり方は少数派とのこと。)校門や屋上のポールに掲げる学校は少数。中には校長室に三脚で設置して「国旗を掲揚」と教育委員会に報告した例も聞いた。

⑤君が代は、省略していた学校も多いと聞いていたが、CDでメロディを流していた学校が殆どで、前奏付きで「唱和」を求めた学校は少数であったようです。前奏は唱和を促す意味があると知ったのはこの時が初めて。前奏が無い場合は唱和を求めない意味があるそうです。オリンピックやサッカー・大相撲などどうしているか、記憶にない!!!

⑥そのような中で広島の校長が自死するという事件が起こった。君が代・日の丸問題で、教育委員会と職員会議とのはざまで苦しんでいたことが原因と報道され、「国旗・国歌法」(1999年)につながった。その4年後の2003年に10.23.通達が発出された。

2023.10.23. 10.23.通達20周年①

①石原都政の頃(2003.10.23.)、悪名高い通達が発出されて今日で20年になる。現在第5次裁判が東京地裁で審議されているが、この機会に20年の経過をまとめておきたいと思う。

前史

教育委員会 : 1948年、GHQの指示で、欧米の教育制度をもとに、地方自治体の長から独立した公選制・合議制の教育委員会を設置した。しかし、この体制は長続きせず、1956年、教育委員は自治体の長の任命制となり、教育委員会は首長の影響下に置かれることとなった。

教育基本法 : 日本国憲法が制定されたとき、教育についての記述が少ないことが指摘され、1947年3月31日「教育基本法」が制定された。その第十条にはのちに「不当な支配」という文言により、国家による教育への介入を厳しく戒めることとなった。
第十条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
その後、2006年12月22日に現在の教育基本法が制定された。第十条は、
第十六条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
と改定された。「不当な支配」という文言は残されたものの、国家による教育への介入を宣言したともいえる内容となった。

学習指導要領 : 「学習指導要領」は教育内容の平準化を目的として、教科・科目の教えるべき目標を定めたもので、教科書製作や教材の選定の基準となるものである。
500頁に近い本文の中、第5章特別活動、第3 指導計画の作成と内容の取扱い 3 に
「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」
の記述があることを根拠に、10.23.通達が発出された。
この文言は、10年ごとに改訂される学習指導要領のなかで、微妙な変化をしている。

2023.10.20. 戦争というもの③

①TVのインタビューに歴史学者のハラス氏が応えていた。印象に残ったので一部を書き留めておく。

②「戦争には絶対的な加害者や、絶対的な被害者はない」という。互いに傷付けあうのが戦争だという。同じように「絶対的正義」や「絶対的悪」もない。しかし、当事者は自分の想いや感情で向かっていかなければならない。10月14日にこの欄で書いたように、一つの旗の下に行動するしかない。そのような状況が「戦時」である。

③日本人にどのように行動して欲しいかという問いかけに、「心にスペースを持って欲しい」という。イスラエル人の彼には家族や国の事を考えることで精いっぱいである。当事者でない人たちが、心にスペースを持って、判断して欲しい。そして、政治・経済・文化などあらゆる手段を講じて事態の鎮静化に協力して欲しい。人道的支援を期待している。

④以上、数分間のハラス氏のインタビューの聞きかじりで、私の我田引水の恐れもあるが彼の気持ちを記録しておく。

⑤以前このHPで紹介した品川正治氏の講演、「戦争・人間・そして憲法9条」で述べている「若者に伝えたい戦争の三つの定義」の言葉をしみじみ思い返した。戦争の当事者となったときに私たちはなにを考えるのであろう。今の日本には心のスペースを空けて考える余裕があるはずだ。

2023.10.20. 戦争というもの②

①イスラエルとハマスの争いは予断を許さない。日本の報道を見聞きしていると「他人事」のような扱いが気になって仕様がない。

②例えば、今国会で兵器の輸出が討議されると聞いた。頭の上から落ちてくるミサイルに「MADE IN JAPAN]と書いてあれば、落とされた方はどのように感じるか。
確かに軍需産業はもうかる。軍需物資は「消耗品」ではないからだ。使わなくても常に新兵器に買い替えなければならないから。一方、自衛のために「新兵器」を自国で開発しても開発費がまかなえない。だから、他国に輸出したくなる。
そのような兵器が、イスラエルやパレスチナの人たちの頭上の降っているのだ。

③今の日本が計画している敵基地攻撃能力も、中東の紛争を見ていると「なんの役にも立たない」ように思う。

④ほっとする話①
アメリカでユダヤ系の人たちの集団が戦争の即時停止を訴えてデモをしている。積年の争いはさておいても、ガザの市民の安全をアメリカの地で訴える。パレスチナのイスラム教徒への攻撃に反対しているのだ。

⑤ほっとする話②
ガザのがれきにたたずむ男性が、日本人の記者と知っての応答。「日本とアメリカの間にはかつて悲惨な戦争があった。それでも過去を乗り越えて今の友好がある。イスラエルとパレスチナもそうあってほしい。」戦禍の中でそういう思いをしている人もいる。

⑥遠くの国の宗教紛争などと分かったような発言をするコメンテーターを見ていると、寂しい。将来、日本が戦争に巻き込まれないようにするには、「今しかない」ということを肝に銘じる時ではないか。「新しい戦前」の足音が近づいている。

⑦戦争というものは、始まる前に阻止しなければならない。始まったら、どちらも「悲惨な過去」を体験することになる。

2023.10.19. 学生自治会

①日大ラグビー部の問題が「再燃」している。興味が無いのでこの欄では触れないでいたが、ちょっと気になるので、ひとこと。

②そもそも日本大学には学生自治会というものは無いのであろうか。半世紀前の私の大学生時代の感覚から言うと、学長なり理事長なりを学生総会に呼び出して、当時の言葉では「つるし上げる」程度の事態だと思う。過激な言葉を使わなくても、説明責任があることは確かで、「学生自治」がないがしろにされている状況である。
おそらく「学生自治ってなに」という感覚なのだろう。

③学生は全員「成人」であるし、少なからぬ入学金・授業料を収めているのだから発言する権利はある。まして、学生を「指導」する立場の人達であり、学生は「指導を受ける」義務も少なからずある。そのような人たちの所業を見ていて「なにも感じない」のかと思う。

④60年代の学生運動、70年代のオーム真理教事件のあと、学生は政治と宗教に「無関心にさせられた」と思う。あえて「無関心になった」ではなく「無関心にさせられた」と言っておきたい。「関心」というものは自発的に生まれるもので、誰かが教えてくれるものでもないし、あえて「喚起」するものでもない。

⑤実は私の関係している「東京・日の丸裁判」のきっかけとなったのが、来週20年目を迎える「10.23通達」の発出であった。卒業式に日の丸を掲揚し君が代を斉唱せよという、東京都教育委員会の通達である。このことについて賛否両論はあると思うが、そのことに興味・関心を持たせない、疑問を生じさせない、そういう目的を持った通達であった。それから20年、当時教員になった人たちは42才になり、教育現場の中核をなす世代になった。同時に実施された職員会議での「採決禁止」で教育委員会・校長の上意下達が徹底された。たぶん現在の教員は会議の進行の仕方を知らないと思う(例えば緊急動議の扱い)。

⑥教育現場がそうなのだから、日大に「自治会」が無くても不思議ではない。この10.23通達を跳ね返せなかった私たちの責任は重い。

2023.10.14. 旗というもの

①ニューヨークや日本で、イスラエルやパレスチナを支持する人々が「戦争の終結」を求めて行動を起こしている。しかし、道を挟んでののしりあいをしている場合であろうか。旗を掲げることにより旗幟鮮明となるかというと、そうではない。

②パレスチナの国旗の下で女性が、「私はどちらの支持者でもない。一刻も早く戦争を終結して欲しいから、ここに居る。」と発言していることが報道されていた。それぞれの考え方があって、意思表示の必要性を感じて、「居ても立っても居られない」との思いであろう。私がこの欄にグダグダ書いているのも、そのような気持ちからである。

③イスラエルに住んでいる人も、パレスチナに住んでいる人も、いろいろな想いがあるのであろうが、戦争となればどちらかにつかねばならない?。世論が二分され、お互いがお互いの立場に立って争うことになる。互いの意見を尊重して合意に至ることが難しくなる。私も飲み仲間がいて、二人が隣り合うと極右と極左の会話と見られているようで、私も面白がって対応していると、周囲の人が心配し始める・・・。

④オリンピックなどは、心置きなく日本を応援できるが(そうでない国もあるようだが)「旗」の下に集まることが、団結を強くする効果もあるが、一定の思想に人々を縛り付ける作用もある。国家を二分する恐れもある。

⑤教育に携わったものとして、大いに配慮しなければならない。

2023.10.13. 戦争というもの

①イスラエルとパレスチナの戦いが始まった。火ぶたを切ったハマスに重大な責任があることは確かだが、私の乏しい知識の中ではイスラエルとパレスチナの双方に理由があり、論評する立場にない。

②しかし、戦争というものは「こういうものだ」ということを目の当たりに見せつけられた、そういう思いが激しい。どちらにも「言い分」があるのだろうが、数日のうちに2000人以上の命が失われ、その何倍もの人たちが負傷し、さらに悲しむ家族がいる。争いは鎮まる気配もなく、このままでは数十万人の犠牲者が見込まれる。

③戦争は始まったら、勝っても負けても取り返しのつかない被害を被る。そのことを念頭に、戦争の放棄(憲法9条)の必要性を考えなおす必要があるのではないか。理想論だとか、「もしせめて来られたら」などの議論を聞いていると、「あってはならないこと」「起こらないこと」を前提に軍備を肯定する議論に思える。敵基地攻撃能力などは、そういう事態が無いことを祈りながら、虚勢を張っているようにも思われる。いったん戦争が起これば、「屁のつっぱり」にもならない。

④一方、戦争の放棄を現実のものとする「現実的」な方法が検討されたことがないように思われる。政権自民党が戦後ずっと党是としている思想が根底にあると思う。

⑤ウクライナの場合、「陣取り合戦の時代は、終わっているのに」、と思った。イスラエルとパレスチナの問題は「まだ解決できていないの?」と思う。人類は「ことば」という強力な道具を持っているのに、30年たっても70年たっても、一歩も前進できていない。

⑥温暖化は、絶望的な状況だと思う。争っている場合ではない。人類の「覚悟」が試されているのに。

2023.10.13. 登山規制

①私の知識では登山規制している山岳は、谷川岳と剣岳だけだと思う。もちろん絶対禁止というのではなく「厳しい計画書」の届が必要。高校山岳部で雪上訓練を行っていた時も毎年提出して行っていた。もちろん、入り口の安全なところで行っていたのだが、未届けのスキーヤーが春スキーを満喫していたこともあった。

②たとえば、日光の男体山を計画して問い合わせたところ「お山は閉じています」という巫女さんの言葉で断念。今年の富士山の登山禁止は同じような理由によるものと思われる。

③以前、秋田と青森の間にある白神山地が世界遺産に登録されたころ、沢登でコースを開拓した登山者が問題になったことがある。自然保護の立場から入山禁止にしては、ということが話題になった。登山というスポーツは「新規ルート」の開拓の歴史である。未踏のピークを目指し、稜線から・沢から・岩壁から様々なルートが開発された歴史がある。

④もちろん危険が伴うのは現実で、それでもチャレンジして克服してきた歴史がある。この時言われるのが「自己責任」である。決して「わがまま」ではない。実を言うと私は11月の富士山が最も美しい(登山者として)と思っている。しかし安全性や装備・パートナーの選択など十分な条件が整わず、年齢的にも断念せざるを得ない。

⑤昨今の山岳遭難を見ていると、計画性も準備も全くない状態で昇り、起こるべくして起こった事故が多い。「登山の自由」とは程遠い。そのために登山規制を設けるのは本末転倒としか言いようがない。疲労や捻挫・骨折、道を見失ったなどの救助要請など、他の登山者の迷惑そのものと思う。

2023.10.8. 初雪の頃

①ここ数日、滑落事故が増えている。ふもとから見て山が雪化粧をするころ、山は氷の世界に入っている。

②雨や雪解けの水が岩と岩との間で凍り付いている。見た目には夏山と変わらないが、足がかりも手がかりもない。アイゼンがあればいいが、冬装備でなければ下降が特に難しくなる。一歩一歩氷を砕きながら下るしかない。

③一般の登山道でも、2倍3倍の時間がかかることを余儀なくされる。

④私も、10月10日、槍の穂で恐怖を感じたことがある。20代の頃であったが、以降、この時期の3000mは断念している。

2023.10.8. 山を楽しむ

①高齢者の山岳遭難が続いている。残念なことは高齢者がひとりもしくはふたりでの事故が多いこと。私の持論で恐縮だが、登山の良いところは初心者から高齢者まで年齢を問わず活動できることと思う。他の競技では、ランニング・テニス・スキー・水泳なども候補に挙がる。

②私も、最盛期にはテントと食料を担いで日本中の野山を歩いた。縁あってカラコルムで4800mの高山にも訪れることができた。しかし数年前、腰椎の圧迫骨折を起こし、片道1時間程度の平地の行きかえりが限界となってしまった。しかし、他のスポーツと違って、「山で生活すること」事態が楽しみであり、新しい発見に出会うことが出来ることである。上高地を主体に様々な人たちと知り合い、語ることを楽しんでいる。年賀状の枚数が年々増加傾向にある。

③人間の本性として、「より高く、より速く」(どこかの標語にあったが)を生きがいにしがちだが、登山というスポーツに関して私はそうは思わない。高校の山岳部の顧問をしていた時も、山岳部は運動部ではなくて文化部だと考えていた。活動するためには体力が必要であるから放課後のトレーニングにも参加したが、学校の文化祭にも必ず活動報告を欠かさなかった。そういう伝統のある高校でもあった。

④もちろん卒業生の中にはロッククライミングに明け暮れる人もあり、チョモランマの中国隊に参加して「頂点」を極めようとする者もいたが、企業の中堅で忙しい中にも近くの山を歩いたり定年後も活動が生活の一部になっている者も多い。

⑤高齢者の遭難を見聞きするたびに、「いまの」体力に合ってないことが気がかりになる。むかしを思い描いて続けているようで、悪い言い方になるが「成長していない」とおもえて仕様がない。このような言い方は失礼にあたることは重々承知だが。一生山を楽しむためには、前向きな自重が必要と思う。

2023.10.8. 低体温症

①那須で痛ましい山岳遭難が起こった。私の想像を交えざるを得ないが・・・原因を考えてみる。
霧の中を歩いているうちに全身が湿った状態になったのではないか。そこに風速10mを越える強風が吹くと、体感温度は10度下がる。感覚的には寒いと思いながら、風で「寒いと感じている」と思い寒さ対策が遅れる。

②登山を始めたころ、同じような体験をしたことがある。上高地から涸沢へ向かうとき、山小屋が見えるあたりから霧と強風に遭遇し、小屋に着いたころは気持ちはしっかりしているつもりでいたが、宿帳を書こうとすると自分の名前すら「霧の中」。しばらく暖を取った後、やっと宿泊の手続きを済ませることが出来た。

③この状態が稜線上で山小屋から離れた所で、まして高齢者で体力が落ちていたら・・・と考えると那須の事故は「必然」とも思われる。

④防寒・防水・防風。私の山の遭難三原則。水は必須だが、食料が問題になることはまずない。最近は装備が充実してきたので、扱いを間違えなければ命に係わる遭難は起こりづらいはずなのではあるが。

⑤羽毛服は暖かいが、水にぬれると悲惨なことになることを知っている人は少ない。ザックの上に寝袋を括り付けて歩いているのは自殺行為。もし衣服が雨(霧・汗)に濡れたときは下着も含めて着替えることが必要。濡れた服は乾かして翌日出発前に、再びそれに着替える。乾いた服一式は「死守」する。

⑥以前、北海道でツアー参加者が集団遭難したことがあったが、テントの中に避難できたのに多くのメンバーが凍死したことがあった。乾いた服に着替えていたら・・・と悔やまれる。

2023.10.1. 年収の壁(10.8.全面書き換え)

①持論だが、この問題を解決できない大きな理由は「家父長制」にあると思う。
家長・世帯主が家族を養い、先祖伝来の「家」を相続し、一族の繁栄を目指す。「国体」という言葉も死語になったかと思ったら、結構、息をひそめて力を蓄えているように思われる。

②世帯主が基本だから、その両親や子供たちは「被扶養者」として税金は扶養控除され、さまざまな手当・給付金は家・世帯主に支給される。相続などもその観点で規定されている。

③そのシステムの中で家族が労働収入を得ようとすると、扶養手当などとの整合性が無くなる。そのために導入されているのが「年収の壁」である。
一方社会は女性の社会参加を必要としていて、女性の参画なしには経済が成り立たなくなっている。つまり世帯主に対する扶養控除という税制を変えなければならない状態にある。

③ここで思い出すのは、以前、給付金を配ろうとしたとき、世帯主の口座に家族全員・被扶養者の分をまとめて振り込むことが合理的であった。地方自治体もシステムが出来上がっているので、そのシステムを利用するのが最善であった。しかし、マイナンバーカードを普及させたくて仕方なかった**さんが個人申請を推奨した。家族にひとりが個人申請すれば、その分その世帯主への送金を減額しなければならない。大混乱が起こった。

④マイナンバーカードという「個人」の単位のシステムを導入しようとしたとき、「家族」との整合性を見直さなければならない。
そういえば昔の保険証は家族に一枚であった。一枚の保険証に家族全員の名前が記入されていて、家族みんなが1枚のカードを共有していた。実に不便であった。それが個人カードになったのはずいぶん前だが、混乱どころか画期的な変革であった。

⑤たとえば、所得税を50%くらいにして、収入のない、高齢者や子供・年金生活者に対して所得税」を「支給するようにしてはどうか。年金生活者には本人に、被扶養者にはその扶養者に(子供の分は親に)、老人ホームには運営者に支給してはどうか。憲法が保障している「最低限の文化的な生活」が公平に行きわたるようになると思う。
親は、所得税を引かれても子供にかかる費用は食費まで給付されるし、学費は無料になるし、老人は平等な支給を期待できる。

⑥それにしても、「家族」を単位とした「国体」の概念が足を引っ張っているように思う。日本人は「個人」として生きていくことの難しい民族なのかもしれない。その象徴が天皇の「男子一系」なのかもしれない。

2023.10.1. スポーツマンシップ

①昨夜、アジア大会の卓球の中継を見ていて、「スポーツマンシップ」をしみじみ感じる試合があった。

②卓球男子シングル・凖々決勝、張本智和(日本)とチャン ウジン(韓国)のメダルがかかった試合。
張本̬̬がゲームカウント3対1で迎えた第5ゲーム。15対15の伯仲する展開で、張本にアクシデント。試合の続行が危ぶまれる状況。
張本は足を引きずりながらも試合を続行。第5・6・7ゲームを失い、チャン ウジンが準決勝へと進んだ。

③この間、いろいろなことを考えながら見ていたが、ここで私の判断を述べることは両者の思いを傷つけかねないので、あえて書かない。
今日になって、マスコミがどのように反応するか関心を持っていたが「あえて触れず」、TBS NEWS だけが淡々と試合経過を伝えていた。

④数日前、中国選手が11対0のスコアを出したことが SNS で話題になっていることが報道されていたが、その時の投稿者の感想の「軽さ」と較べて昨夜の試合は私の心に残るものとなった。

追記 : 卓球では、対戦者に大きな実力の差があるとき、11対0のスコアを避けて11対1にする習慣があるという。どのような考えでそうするかはそれぞれだが、私は良いことだと思う。しかし、「そうするべきだ」「そうしなければならない」と声に出したとたんに、プレイヤーの心遣いを踏みにじることになり、そのようにしなかったときへの「非難」が生まれかねない。軽々な報道をつつしみ、このことをとりあげるなら、両者への「おもいやり」に満ちた建設的な感想が望まれる。
日本で言われる、「道」の精神に通じるものを感じた。

 

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