そのうちに 2024.5.~

最近、もの忘れが激しく、そのうちに記事にしようと温めていると、なんとなく・・・

そのうちに、まとめて、OPINION のページに入れますが・・・

というわけで、そのうちに、そのうちにと言って、毎日が・・・

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目次(日付順) 目次(テーマ別・順次作成中)

 

2024.5.9. 認知症

①医療が発達し、平均寿命が延びるに従って認知症が増えているという。

②まず健康面。確かに医療の進歩があるが、それは病気になったあとの話。食生活について言えばとても貧しくなってきているような気がしてならない。栄養面でバランスの取れた食事をしているかというと、はなはだ心もとない。紅麹で話題になったように、サプリメントの広告が氾濫している現状。適切なサプリメントの処方はとても難しい。若者たちの食生活の実際は知らないが「とりあえず、そこにあるもの」で済ませているのではないか、「映え」を意識した食事にはろくなものがないというのが私の見解。

③こころの問題では、「いやなことを忘れるために」飲んでいると言った人がいる。老人には「きょういく」と「きょうよう」が必要と言われる。「今日行くところ」と「今日の用事」だそうだ。私も気が付いたら外出しない日もあるし昨日の天気すら記憶にない日もある。ホームページの記事を書いているからいいようなものの、一人暮らしのみなさんはどうしているのでしょう。

④年金暮らしの独居老人の実態を、見て見ぬふりをしているのではないか。最終的には施設に入らなければならないとは思っているが、「人間の尊厳」を満たしているようにはとても思えない。このようなことを書いているとだんだん暗くなってくるので、おしまい。

⑤食べたいもの、おいしいものを食べ、友人たちと対話できる老後を過ごすにはどうしたら良いか。積極的に考える時期に来たように思う。決して医療や施設・介護の充実で解決する話ではない。

 

2024.5.8. 環境省

①思えば私の学生時代、諏訪から松本を結ぶビーナスラインが問題となっていた。その時初めて設置されたのが「環境庁」であった。初代長官は東京大学の学長が就任した。ビーナスラインは計画変更され、諏訪側から扉峠を経て小諸に降りるコースに変更された。松本近郊の美ヶ原高原は、以降、保全された。
出発は大きな期待を持って受け止めた記憶がある。(「霧の子孫たち」を参照)

②5月1日の環境省姿勢に対して、大臣が熊本まで出向いて謝るという「決着?」となった。しかし、これでよいのであろうか。懇談会の閉会を一方的に通告し、役人たちは手際よく引き上げる行動をし、患者たちの抗議にもその手を止めなかった。司会が「不手際」を詫びたが、流れるような手際で引き上げて行く。

③環境大臣は出口に向かって移動し、呼び止められて言った言葉は「私は(マイクが切られたことを)認識していません」。「認識していない」という言葉は、「知らなかった」「気づかなかった」「事務局のしたこと」ということで、関知していないということ。その場の最高責任者の発する言葉ではない。もし、本当に認識していなかったとしたら、それまでの話も聞いていなかったということになる。

④今日の記者会見で「水俣は環境庁の原点」と、涙ながらの発言が空々しい。患者から改めて話し合いの機会を持って欲しいと言われて、「努力します」と答え、患者側から「努力ではなく約束を」とせまられ、「しぶしぶ」約束した。反省していると言いながら、「言い逃れの、その場しのぎ」と思われる答弁が続いた。

⑤最初にマイクの音量を切ったとき、「時間はいいから、続けて下さい」と言えば大きな信頼を得られたものを、真逆の対応で熊本に再度行く必要が生じた。次の内閣改造で再任して約束を守って欲しいものだが、それもどうかな?、引継ぎ事項になるのかな?

2024.5.6. 多様性の時代に

①桜はともかく、芝桜・ルピナス・ネモフィラ・・・。数年前、北海道で始まったように思うが「町おこし」の一環で各地で「名所」が誕生している。このような風潮に疑問を抱く方がおかしく思える今日このごろだ。

②単一植物が群落をつくることはあるが、農作物などは弊害を避けて輪作をするぐらいで、自然界の群落も多い年と少ない年が繰り返される。大地に負担をかけているのではないのだろうか。そこに群衆が集まるのも「不自然」と思う。
上高地の好きな私も、ニリンソウの群生を求めて季節には訪れるし、現地の山小屋も群落の保護に熱心だから同じようなものかと思う。しかし、足元にひっそりと咲く貴重な植物を見つける喜びもある。

③視点を変えると。コンビニと富士山の構図がSNSで世界中に拡散し、私も以前から狙っていた富士吉田の商店街の向こうの富士山などの構図が混雑しているという。
上高地を歩いていると、「撮影ポイントはどこですか」と聞かれることもしばしばある。私など「撮り尽くされた」と思われる上高地の風景から「新しい構図」を探して20年以上通い詰めている。

④多様性の時代と言いながら、文化の多様性が失われる方向に向かっているような気がして仕方がない。人それぞれが自身の個性を生かして生きていく世界が理想ではないのだろうか。
単一性が進行したとき、生物は絶滅の危機を迎える。社会としては独裁の危険性が生まれる。

2024.5.3. 環境大臣が

①環境大臣が水俣病の患者から意見を聞く場が設けられた。80歳を超える患者が亡き妻の状況を話している場面で、3分間の発言時間が過ぎ、事務局が割って入った。さらに発言を続ける患者に、マイクの音量を絞り係員がマイクを取り上げた。現場にいた環境大臣は「何事もなかった」と発言して、その場を去った。

②「人の話を聞く」という、最低限の責任が果たせていない。「丁寧な説明」という岸田さんの言葉が、ますます軽くなった。

③憲法の草案を示すことが内閣の責任というが、話し合うことの基本もできない内閣で、何ができるか。かねてから国の「公聴会」の在り方が問題となっているが、「人間として」の資格がないように思う。

④少ない情報でこれ以上書く必要もないので、ここまで。

2024.5.3. 憲法記念日

①現行憲法が施行されて77年。人間でいえば「喜寿」。岸田さんは余命宣告したくて仕方ないようだ。

②77年間、自民党は憲法を順守することを求められながら、憲法改正を「党是」と言ってはばからない。その間、警察予備隊を編成し、自衛隊と名前を変え、防衛庁は省に昇格。自衛権から敵基地攻撃能力へ。なし崩しに「平和憲法」を壊す姿勢は許されないものである。

③憲法は国民が定めるものだから、変更はあっても当然だと思う。しかし、権力を持つ者がなし崩しに「無視する」姿勢はゆるされないし、「検討」すると言っても自民党の憲法草案は高校生の作文程度で、国民の総意とは恥ずかしくて言えない代物である。審査会とかで形だけの話し合いのあと、閣議決定とかで国民投票にかけられては堪ったものではない。

④懸念するのは、国民が賛成しそうな条文を表面に出して、平和条項を「どうとでも取れる」条文にして、乗り切ろうとする姿勢である。これまでも多くの「実績」がある自民党の常套手段である。現在検討されている政治資金規正法など、その最たるものであろう。

⑤ついでに、明治憲法を作るとき、日本中の団体が「憲法草案」を発表した。結局は政治家のお手盛り憲法になったが、民主を掲げる人々の情熱に頭が下がる思いである。

2024.5.3. 学生運動

①アメリカでイスラエル反戦運動が活発化している。半世紀前の学生運動を彷彿とさせるが、当事者だった一人として感慨深い。

②学生たちが何を批判しているかを明確に報じているマスコミが少ないことが残念である。イスラエルとハマスの「正義」ではなく、パレスチナで起こっている悲惨さに感じて争いの即時停戦を呼び掛けている点に注目しなければならない。だから、ユダヤ人もアラブ人もキリスト教徒もイスラム教徒の立ち上がっている。人種間・宗教間の対立と見るのは間違いで(それぞれの国旗を振りかざす人もいるが)人道的な問題として扱う必要がある。

③暴力的な面が映像で流れる状態があるが、暴力をふるっているのは警察・権力側のように見れる。広場を占拠したり建物に立てこもっている学生とそれを排除しようとする公権力の行動を冷静に比較する必要がある。半世紀前、日本では「過激派」と呼ばれる一部の学生運動家の行動が強調され、本質が忘れ去られた記憶がある。

④ユダヤ教徒の問題は、平和な時代に冷静に解決方法を話し合わなければならない。過去の問題を背景に争っている中では、解決は望めない。とにかく争いをやめて、時間をかけて、公平な妥協点を模索しなければならない。その最初のステップを求めているのが現在の反戦運動と思われる。暴力的な争いを持ち込めば「紛争の輸入」でしかない。

⑤半世紀前の日本での学生運動は、暴力的な面のみが強調されアメリカに対する日本の「立ち位置」という本質が見失われた。さらに学生が政治に無関心(というより政治を忌避する風潮)となり、さらに宗教への無関心へと続き現代に至っている。健全な学生運動が残っているアメリカを羨ましく思う。

2024.5.1. 露出補正

①いまさらフィルム時代の「露出補正」を取り上げても仕方ないが、デジタルとの比較において疑問を述べておきます。

②そもそもカメラは、レンズから入ってきた光量に対して露出を設定するのだが、その際の基準は「人肌」。肌の色がきれいに映るように露出を決めるのです。ヒトの肌の反射率は、確か18%だったように記憶しています。したがって太陽光を100とすると、100/18、つまり 入ってきた光量の5.6倍が光源(太陽)の明るさと判断します。

③しかし雪景色は「白」ですから、反射率は70%なので、70×5.8=406 なので太陽が4個ある状態と勘違いして、絞りを 1/4 に絞めてしまいます。逆に被写体が「黒」だと反射率が10%なので、10×5.8=58 となり太陽が半分しかないと誤解します。

④これらを「補正」するのが「露出補正」なのですが、被写体の「色」によって反射率が異なるので、被写体によって微妙な調整をするする必要があるのです。

⑤昨年4月からデジタルカメラに移行して、この「補正」がわからなくなりました。被写体の「色」を検知できれば自動補正できるのですが、「明るさ」しか検知できないようなのであまり進歩している感じではありません。しかし、何らかの「補正」をカメラが自動的に行っているようです。

⑥ピント合わせや絞り・シャッター速度を自動でしているので、便利は良いのですが、「何か操作をしている」?ようで、フイルムの時と微妙に違います。慣れるまでしばらくかかりそうです。

⑦ついでに言えば、使っている私の「眼が慣れてくる」方が早いようで、違和感が少しずつ薄らいできています。良いか悪いかは別として。

2024.4.18. 書店の廃業

①全国の書店の廃業が進んでいることに関わって、経産省が動き始めたようだ。その真意がどこにあるのかわからないが、予算のバラマキ程度くらの発想しか出ないだろうと思う。

②若者は、スマフォの活用で書店は必要ないように言うが・・・私は納得できない。そもそもスマフォを通じて得られる情報は、「誰かがアップした情報」に限られる。その動機は、決してボランティア的なものではない。人工知能の開発で、内容そのものの真実性すら疑われる。政府がその気になれば、国民を洗脳することすら可能ななってきた時代である、

③むかし、修学旅行の担当になり、岩手県を中心とした企画に携わったことがあった。宮沢賢治とか遠野物語などで有名だが、調べていくとその資料の少なさに驚いた。東北地方の知名度でもダントツに低い。あらゆる分野の資料を漁っているうちに、「岩石図鑑」の「岩」の地が目に留まり苦笑したことがあった。現在ではネットで検索をかけることが出来るが、例えば「犠牲者を出さなかった百姓一揆」とか「遠野の太陽光発電」などにたどり着くことが出来るであろうかと疑問に思う。

④最近(この欄でも触れたが)、川端康成の「骨拾い」など、出会うチャンスはまったくと言っていいほどない。それが必要ないと言ってしまえばそれまでだが。

⑤新宿などを歩いていて、ラーメン屋とイタリアンが多いことが気になる。駅の広告は医療関係と予備校が殆ど。口では「多様性」と言いながら、文化がうすっぺらになっていくような、そんな心配をしている。書店の廃業は「ここまで来たか」という思いである。

2024.4.18. 島根1区

①NHKが島根1区の選挙戦を報じた。与野党支持者の双方に、「決めかねている」事情があるようだ。

②根底にあるのは、「地元の振興」である。政府与党の実力者を選出しておけば、予算はとりやすい。逆に野党なら困難を極める。実際の動きは知らないが一般的に、高速道路・新幹線・空港・原発など、知事を越えたレベルでの政治判断が伴う。

③同じことが知事選でも問題になる。国会議員と強いつながりがあれば、なにかと「便利」である。最近の北海道での高圧的な議員の姿勢なども、その弊害としか言いようがない。

④地方自治は、その地方の発展のために精一杯やるべきで、地方の代表であるべきである。しかし、国会議員は地方の擁護者であるべきであろうか。小選挙区制がもたらした象徴的な弊害のように思われる。狭い選挙区の代表として選ばれ、利害を共有する自治体に優位な滝場で君臨する。そのような態勢が出来上がっているように思荒れる。選挙区が広いと選挙運動に金がかかるとかで、地元のカバン・カンバンに気を配らなければならなくなる。

⑤参議院は「都道府県の代表」の色彩が強いが、半期ごとに半数の改選が余儀なくされ、1票の格差の是正のため、都市部を小選挙区に分割し、それでも足りないので「合区」が進んでいる。地盤を死守するための選挙区でしかない。

⑥問題点を指摘して、愚痴を言っていてもしかたない。思うには、ふるさと納税ならぬ「ふるさと投票」くらいの柔軟な発想をしてみてはどうかと思う。マイナンバーとコンピュータの発達で可能になったのではないか。立候補者は地元の発展は知事に任せ、国政に専念してはどうか。それができる人材が政党に求められているのではないか。党議拘束を外せばタレント議員も減ると思う。

⑦思い付きなので、今日はここまで。

2024.4.15. 駐日大使が

①ライシャワー大使だったと思うが、記憶違いだったら、ごめんなさい。

②アメリカの駐日大使で、日本語に堪能な大使であった。テレビの座談会で、通訳なしで話題に参加していたが、突然、英語で話し始めた。駐日大使として「責任を持った発言」が必要になったので英語に切り替えたのだという。平均的な日本人よりも美しい日本語を話すアメリカ人という印象だっただけに、記憶に残った事件だった。

③大使という立場が、発言に責任を持たせ、正確さを必要としたのだ、

④岸田首相がアメリカ議会で発言した言葉に、「誤解を招く」ような表現があったと話題になっている。わざわざ英語で話したのだから、「誤解を招いたこと」は弁解させてほしいというわけにもいかないだろう。そもそも「誤解を招く」という表現がアメリカにあるのだろうか。あるとしても、どちらが悪いのだろうか。誤解して受け取った方の責任にすることは通用しない。

⑤国会答弁で「内容のない答弁」で議会を切り抜ける習慣はそろそろやめないと、「ヤバイ」ことになる。「舌禍」という言葉を思い起こす。

2024.4.13. 台湾地震

①以前、台湾に「登山」で行った時の経験からすこし。

②ユーラシア・プレートとフィリピン・プレートのせめぎあいの上にあって、意外と地震が多い地域です。南北に山脈があり、玉山(3952m)雪山(3886m)があります。北回帰線の真下にあり頂上の植生は日本の穂高連峰(3000m)と同じくらいです。森林限界が3500mくらいだったように記憶しています。1895年に日本が植民地化した時、富士山より高い山という意味を込めて、新高山・次高山という無粋な日本名を付けました。真珠湾攻撃時の暗号「ニイタカヤマノボレ」はここに由来しています。

③西側は平地に恵まれ、交通インフラも整えられていましたが、東側はフィリピン・プレートが押し寄せて来ているようで年に数センチくらいの「目に見える」くらいの変動があり、東西を結ぶ道路は急峻な谷を縫うように走っています。そのため洪水が頻発し、台東の川を横切る鉄道が鉄橋ではなくトンネルで川を越えるという、世界でも珍しい施設があります。

④東側は、ほとんど平地が無く人口も少ない地域ですが、太魯閣(タロコ)渓谷などの景勝地のほかに、中国を意識した軍事基地があります。花蓮には断崖に掘った格納庫?が記憶に残っていて、北の基隆は軍港として有名です。

⑤地震への対応の早さが話題になっていますが、台湾は対中国の軍事態勢下にあり、年に数回の空襲避難の全国規模の「抜き打ち」訓練があると聞きました。ホテルには地下への避難経路が示されていました。そういえば、西側の高速道路は電柱が無く、飛行機の離着陸が可能になっていました。

⑥食べ物がおいしいことと、故宮博物館の展示には圧倒されました。以上、何かの参考までに。

追記 : 玉山がさらに高くなった模様。再測量とのこと。花蓮で45cm隆起した。

2024.3.15. マルハラ

①そもそも、日本語には文字がなかった。そこに中国から漢字が伝わり、カタカナ・ひらがなが作られ、漢字の中国読みから「音読み」、日本語に合わせての「訓読み」ができ、当て字などの工夫もされて、世界でも難解な言語世界ができた。

②「句読点」が漢文を読むときの「ここまで読んだ」という目印だったという話もあり(本当?)、句読点は明治のころの発明かな?という話もあり、発生は最近のことと初めて知った。
逆に考えると、SNSやショートメールに慣れた現代人??にとっては句読点は不要なものになりつつあるのかと思う。

③英語やドイツ語などを読めることが教養人の証し?であった明治の人たちは、「カンマ」や「ピリオド」が当たり前なので句読点も自然に受け入れられたのではないか。

④思えば句読点は、「詩」などには使わないし、俳句や短歌などには無縁の世界。むかしポーランドの作家の小説で、100頁以上句読点の無い文章で訳されていたものがあった。叙事詩のようなジャンルに入るのであろう。

⑤要は、伝えたいことが明確に伝われば良いのであって、英語などは単語ごとにスペースがあるが日本語の文字は粘着性があるので句読点が必要になるのではないか。私もこの欄に思い付きを書いているが「正確に伝わること」を考えると句読点が増える傾向にある。「誤解を招くような」表現を「するのか避けるのか」、それが問題。必要に応じて使い分けているのが「霞が関文学」。

⑥「。」があることによって、「圧力を感じる」などと言わないで、必要に応じて聞き流す(読み流す)ことが必要。このことが問題視されること自体が別の問題。

2024.3.10. 3.10.

①東京大空襲が忘れ去られようとしている。当時の写真を見ると、今のガザでありウクライナである。いずれも「人類の力」で避けられたことというのが私の想い。

②「天災」という言葉がある。「いつかは起こるもの」「避けられないもの」「協力して復興するもの」というようなニュアンスで使われるが、大切なことは、「可能な限り準備しておく」「少しでも早く復興できる準備」することが出来る自然現象であること。

③今回の能登地震では、耐震構造が有効であったし、石川県の公務を三重県が肩代わりしたとか、ふるさと納税のシステムを使った直接の援助など、「すこしは」進展があった。災害から学ぶことは多いし、「人の力」で災禍を減少させることはできる。

④しかし、国と国との争いは避けることが出来るはずなのに、「起こってしまった時」のことが議論され、「起こさないための努力」が一向に論じられない。それどころか、起こったときの「勝利するための努力」に対して優先順位を発揮している。

⑤平和憲法を話題にすると「理想論だ」と一蹴する風潮がある。理想に向けて努力して何が悪い。それでも起きてしまった争いは、「天災」なのか「人災」なのか。そういう議論をすべき時ではないか。3.10.と3.11.の狭間で話し合う機会を作るべきと思う。

追記 : もし世界のどこかで「核」が使われたら、「ヒロシマ」が積み重ねてきた努力が3.10.のようにならないか。毎年、この時期になると、考えさせられてしまう。

 

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